(……国家主席とは、便利なものだな)
実に便利だ、とキースが遮断してゆく回線。
グランド・マザーに直結した「それ」、監視カメラやマイクに繋がったモノ。
普通の者には、触れられはしない。
国家騎士団総司令の頃でも、その権限は持っていなかった。
「グランド・マザー」の「瞳」や「耳」を塞ぐなど。
どう足掻いても「機械の身では覗けないよう」、部屋を完全に孤立させるなど。
けれど、今では可能なこと。
グランド・マザーが座している地球、人類の聖地の中心でも。
唯一、人間が生きてゆける場所、ユグドラシルの中であっても。
(……どうせ、マザーは気付くまい……)
「キース」が何を意図しているのか、何故、回線を遮断したのか。
今日まで「真面目に」生きて来たから、機械は微塵も疑いはしない。
「キース・アニアン」が裏切るなどは。
彼らが無から作った生命、「理想の子」が反旗を翻すとは。
(…ミュウどもが、地球に降りたのだからな…)
それに備えての考え事でもするのだろう、とマザーは思っていることだろう。
その目や耳を塞がれても。
「キース・アニアン」に指図するための、口さえ塞いでしまわれても。
(…これでいい…)
完璧だな、と部屋を確認してゆく。
残った監視カメラは無いかと、他の設備も停止させたかと。
この瞬間から明日の朝まで、「此処」は無人でなくてはいけない。
警備兵さえ下がらせてあるし、セルジュにも「来るな」と命じておいた。
グランド・マザーを「黙らせた」のも、その一環。
これからしようとしていることを、知られるわけにはいかないから。
全て終わるまで、隠し通さねばならないから。
フウと息をつき、執務机の前に座って考える。
部屋の白い壁の一点を見詰め、「どう始めるのがいいのか」と。
国家騎士団総司令として、元老として、何度もこなして来た「演説」。
人の心を掴む術なら、幾度となく披露し続けて来た。
(…それも機械が教えたことか…)
私自身が知らない間に…、と歪める唇。
E-1077の水槽の中に浮かんでいた頃、流し込まれた膨大な知識。
「人類の指導者」になるために。
こうして国家主席となって、人類を導き続けるために。
(だが、生憎と…)
もう導いてはゆけないのだ、と限界を思い知らされた。
いくら「キース」が努力しようと、「歴史の流れ」に逆らえはしない。
時代遅れのグランド・マザーは、「出来る」と考え続けていても。
「それが正しい」と機械が思っていようと、叶わないことは存在する。
「終わりの時」は、もう見えているから。
グランド・マザーが気付かなくても、それは機械のプログラムのせい。
「そう思考する」ことが無いよう、グランド・マザーは作られたから。
どれほど矛盾を抱えていようと、「彼女」は疑問に思いもしない。
「ミュウは宇宙から排除すべし」と唱えながらも、「ミュウ因子を排除できない」こと。
本当に排除したいのだったら、ミュウ因子を排除すればいいのに。
そうすればミュウは「生まれて来ない」し、いずれ自然に消え失せるのに。
(……ミュウ因子の排除は、不可能なのだと……)
長い間、ずっと信じて来た。
因子が特定できていないか、あるいは排除が困難なのか。
DNAの「造り」によっては、そういったことも起こり得る。
特定の因子を排除した場合、高いリスクを伴うだとか。
「ミュウは生まれて来なくなっても」、「人類」という種族の衰退を招きかねない危険。
そう、「ミュウ因子の在り処」によっては、そういうこともあるだろう。
「生命」と密接に絡んでいるなら、リスクがあっても「残しておかざるを得ない」ケースが。
事情はどうあれ、「グランド・マザーにも不可能なこと」がミュウ因子の排除。
そうだとばかり思って来たのに、先日、伝えられた真実。
「ミュウ因子の排除」は、「してはならないこと」だった。
グランド・マザーが作られた時に、そうプログラムが施されて。
「生まれて来るミュウ」は排除できても、「ミュウの因子」は排除できない。
何故なら、彼らは「進化の必然」、その可能性があったから。
「人類」の次の時代を担う種族が「ミュウ」だとしたなら、因子は排除してはならない。
ヒトという種族を残してゆくには、「彼ら」が必要なのだから。
宇宙から「ミュウ」を抹殺したなら、「ヒト」の未来は無くなるから。
(……SD体制に入る前から、ミュウは存在していたのだ……)
それも実験室の中でも、何体ものミュウが生まれるほどに。
ミュウの因子を残すか否かで、研究者や政治を担う者たちが、会議を重ねて悩んだほどに。
(…そうして彼らが悩んだ結果が、グランド・マザーだ…)
彼らは「答え」を先延ばしにした。
自分たちの手で答えを出さずに、遠い未来にツケを残した。
「ミュウは排除すべし」というプログラムと、「ミュウ因子の排除は不可」なプログラム。
相反する「二つの指令」を詰め込み、グランド・マザーを起動して去った。
遥かに遠い未来のことなど、彼らは「生きて」見はしないから。
そうでなくても「SD体制に入った世界」に、彼らの居場所は何処にも無い。
生まれて間もない赤子までもが、「それまでの世界」と共に滅びていったのだから。
彼らが去って行った先では、「滅びる」以外に道は無かった。
「人工子宮から生まれた人間」だけが、宇宙で生きてゆくのだから。
それ以外の者は受け入れられない、それがSD体制だから。
(…自分たちには関係ない、と先送りにして逃げたのだろうが…)
そうやって「逃げた」結果が「これ」だ、と「自分の運命」を呪いたくなる。
増え続けるミュウに業を煮やして、機械が作った「キース・アニアン」。
「無から作った理想の子」ならば、人類を上手く導くだろうと。
どんなに困難な時代だろうと、懸命に舵を取り続けて。
(……精一杯、舵を取ったのだがな……)
それでも歴史に勝てはしない、と「ヒト」だからこそ分かること。
機械には、「それ」が分からなくても。
矛盾しているプログラムにさえ、自ら気付くことは無くても。
(…ミュウは結局、進化の必然だったのだ…)
SD体制に入って以来の、六百年近い時間をかけて行われた「賭け」と「実験」。
ミュウは進化の必然なのか、それとも、ただの異分子なのかと。
「答え」なら、とうに出ていると思う。
グランド・マザーが何と言おうと、「人類」がどう考えようと。
現に「彼ら」は「地球まで来た」。
たった一隻の母船で始めた、戦いの末に。
「モビー・ディック」の異名そのまま、「負けを知らない」白鯨に乗って。
こうなった以上、「幕を下ろす」しかないのだろう。
「人類」の時代は終わりにして。
グランド・マザーを頂点とするマザー・システム、そちらの方を「排除して」。
「ミュウの因子」を排除できない「機械」では、もう導けはしない。
これから先の「ヒトの時代」も、未だ蘇らないままの聖地も。
(…私が幕を下ろすというのが、なんとも皮肉な話だが…)
そうは思っても、これも「キース」の役割だろう。
国家主席にまで昇り詰めたから、知り得た「真実」。
歴史は「ミュウの時代」に向かって、流れを変えてゆきつつあること。
今ならば、まだ「間に合う」から。
「人類」が「ミュウ」に滅ぼされる前に、共存の道を選択できる。
上手く舵さえ取ってやったら。
頑なに考えを変えない人類、「ミュウを敵視する」者たちを変えてやったなら。
手遅れになってしまわない内に、「キース」はそれをせねばならない。
「人類は、ミュウと手を取り合え」と、皆に話して。
グランド・マザーは時代遅れの機械なのだと、筋道立てて説明して。
(…どう始める?)
どういう言葉で始めるべきか、カメラの前で考えてみる。
「グランド・マザーからは切り離された」カメラと、録音用のマイク。
今から収録するメッセージは、グランド・マザーに知られはしない。
「キース」が何を話していようと、メッセージを何処へ送ろうとも。
(……一個人、キース・アニアンとして……)
話をしたい、と言えばいいのだろうか、と組み立ててゆく「演説」の中身。
国家主席として話すよりかは、「キース」個人の方がいいか、と。
(…それから…)
これもだ…、と机の端末を操作してゆく。
メッセージの収録が終わったら直ぐに、送信準備に入れるように。
「キース」に何かあった時にも、メッセージが宇宙に流れるように。
(……ミュウの女が、私を殺しに来るだろうしな……)
伝説のタイプ・ブルー・オリジンの仇を、「あの女」が討ちに来ることだろう。
殺されてやってもいいのだけれども、メッセージは送信されねばならない。
それが「キース」の、最後の仕事になるだろうから。
「ヒトの未来」が、それにかかっているのだから。
(……圧縮データを、スウェナ・ダールトンに送信……)
自分の手で送信できない時には、この時間に…、と淡々と機械に出してゆく指示。
グランド・マザーの目も耳も口も、塞がれた場所で。
明日の朝には「キースの死体」が、其処に在るかもしれない部屋で…。
ヒトの未来へ・了
※キースが収録していたメッセージ。あれは「いつ、何処で」撮ったんだ、と疑問なわけで…。
「ユグドラシルだ」と思ってはいても、ハレブルでしか書いていなかったっけ、と。
(……また……)
呼ばれたんだ、とシロエは溜息をついた。
何度も此処で眠ったけれども、未だにまるで慣れないベッド。
「どうしましたか?」
「…なんでもありません」
大丈夫です、とプイと顔を背けて、ベッドから下りた。
こんな所に長居などしたくないのだから。
マザー・イライザの顔も姿も、おぞましいとしか思えない。
いくら故郷の母の姿でも、所詮は機械が作る幻影。
これに親しみを覚える者たち、彼らの心が分からない。
「ママにそっくり!」とか、「恋人の姿に似ているんだ」とか、誰もが喜ぶ。
この部屋にコールされた時には、しょげていたって。
「また失点だ」と嘆いていたって、マザー・イライザに会えば笑顔が戻る。
部屋のベッドに横たわる内に、機械が「治療」を施すから。
心に溜まった悩みや怒りを、解いて「平穏」へと導くから。
(……ぼくだって……)
きっと何かで苛立ち、心が乱れたのだろう。
だから呼ばれて「治療」を受けて、たった今、それが終わった所。
もう心には「悩み」など無いし、激しい怒りも残ってはいない。
けれども、それが問題だった。
(……マザー・イライザ……)
またしても機械に弄ばれた、と憎しみの炎が噴き上げる。
機械に心を弄られるなどは、御免なのに。
何処も触って欲しくないのに、マザー・イライザは「それ」を施す。
こうしてコールで呼び出してみては、「眠りなさい」と深く眠らせて。
機械の力で意識を分離し、勝手にあちこち覗いた末に。
「母の姿」にクルリと背を向け、ただ乱暴に歩き始めた。
大理石の像が立つ部屋を突っ切り、扉へと。
扉の向こうの、広い通路へと。
(…もう、こんな時間…)
夜になってる、と腕の時計を覗き込む。
今日の「治療」は、相当に長い時間がかかっていたのだろう。
コールを受けた原因自体は、全く思い出せないけれど。
(……いつものことさ……)
成績不良で呼ばれるわけじゃないんだから、と唇を噛む。
多くの生徒が呼ばれる理由は、成績不良や「講義についてゆけない」こと。
要は「勉強に身が入らない」のを、マザー・イライザが咎めるだけ。
けれど「成績優秀」なのに「呼ばれる」自分の場合は違う。
コールに繋がるのは「素行不良」で、システムにとっては「望ましくない」何か。
SD体制そのものについての、批判だとか。
成人検査を憎み続けて、今も許していないこととか。
(……今日も、その辺だろうけど……)
直接の原因が何だったのかは、どう頑張っても手がかりすらも掴めない。
これが機械のやり方だから。
コールされる度、「大切な何か」を奪われ、消されてゆくのだから。
今日も同じだ、と足音も荒く戻った部屋。
マザー・イライザが何を奪ったか、どんな記憶を消し去ったのか。
そちらの方も気になるけれども、もっと怖いのが「副作用」。
機械がそれを意図しているのか、「副作用」かは不明だけれど。
(……また何か……)
残っていた記憶を消されただろう、という確信。
故郷から抱えて持って来た記憶、辛うじて残っている断片。
コールの度に、欠片が一つ消えてゆく。
酷い時には、二つも三つも無くなったりする。
機械が与える「心の平穏」、それと引き換えに失う記憶。
その「からくり」に気付いた時から、余計に機械を許せなくなった。
E-1077で生きる間は、「コール」に対する拒否権は無い。
無視して部屋にこもっていたなら、職員が引き摺り出しに来る。
まだ、そこまではやっていないのだけれど。
それほど酷く反抗したなら、きっと「ただでは済まない」から。
「治療」が終わって目覚めた時には、一切が消えているかもしれない。
呼ばれた理由も、故郷の記憶も、何もかもが。
反抗心の欠片も失くして、「従順なシロエ」になるかもしれない。
コールの前まで馬鹿にしていた、「マザー牧場の羊」になって。
他の候補生たちと全く同じに、マザー・システムに従順になって。
(……ぼくが突然、そうなったって……)
誰も疑問を抱くことなど無いのだろう。
記憶処理など当たり前だし、不審に思う者などは無い。
そして「自分」も何の疑問も抱くことなく、周囲に溶け込み、それっきり。
両親も故郷も全て忘れて、いつか行けるだろう地球を夢見て。
メンバーズに選ばれる時を目指して、勉強と訓練に打ち込み続けて。
(…そんな人生、御免だよ)
ぼくは絶対に忘れない、とマザー・イライザへの怒りは消えない。
機械が何を消したにしたって、この屈辱を忘れはしない。
「消されたのだ」と自覚があったら、憎しみも恨みも募るだけ。
たとえ機械が何を消そうと、「機械に対する怒り」が心に残っていたら。
(……でも……)
今日も「大事な何か」を消されて、曖昧になっているだろう記憶。
両親の顔が更におぼろになったか、故郷の家が霞んでいるか。
奪われた記憶は、どう足掻いたって、けして戻っては来ないけれども…。
(…ぼくは何もかも、忘れたりしない…)
欠片しか残っていなくたって、と開けた引き出し。
其処には「故郷」が入っている。
懐かしい両親も、その中にいる。
(……ピーターパン……)
たった一つだけ、故郷から持って来られたもの。
子供のころから大事にしていた、両親に貰ったピーターパンの本。
それを開けば、今でも故郷へと飛べる。
両親の顔がぼやけていたって、家の住所を忘れていたって。
「あの家で、本を読んでいたシロエ」が「育って、此処にいる」のだから。
今も「シロエ」は「シロエ」なのだし、ピーターパンの本も変わらない。
機械が何を消してゆこうと、本がある限り、大丈夫。
手にしてページを繰っていったら、両親の声が蘇るから。
故郷の家で座った床やら、寝転がったソファも思い出すから。
コールされたら、ピーターパンの本を読む。
それが習慣になったけれども、何故だか、今日は見当たらない。
(あれ…?)
引き出しに入れていなかったっけ、と慌てて周囲を見回してみる。
広い机の端から端まで。
部屋の書棚も目で追っていって、それから側に出掛けて捜した。
「ピーターパン」の背表紙を。
幼い頃から馴染んだ本だし、タイトルが無くても「見ただけで」分かる。
それなのに、本が見付からない。
部屋中の、何処を捜しても。
「こんな所には、入れやしない」と思う場所まで探ってみても。
(……何故……?)
どうして見付からないんだろう、と増してゆく焦り。
E-1077に泥棒などはいないし、第一、個室に他の生徒は立ち入れない。
そういう規則で、もしも踏み込む者がいたなら…。
(候補生じゃなくて、職員だとか…)
教官やら、保安部隊の者やら、そういった「大人」だけになる。
彼らが部屋に入ったのなら、そして「ピーターパンの本」が無いなら…。
(……処分された……?)
まさか、と冷えてゆく背中。
マザー・イライザが命じただろうか、「あの本を処分しなさい」と。
「ピーターパンの本」を持ったシロエは、何処までも反抗的だから。
何度コールを受けても懲りずに、システム批判を繰り返すから。
そうして噛み付き続ける「シロエ」が、何を頼りにしているのか。
心の拠り所は何になるのか、マザー・イライザなら「知っている」。
コールの後で部屋に戻れば、広げるピーターパンの本。
「まだ大丈夫」と、「覚えている」と、心だけを遠い故郷へ飛ばせて。
子供時代の消された記憶にしがみついては、「忘れやしない」と誓い続けて。
マザー・イライザは、当然、気付いているから、「ピーターパンの本」を消しただろうか。
二度と「シロエ」が手に取れないよう、盗み出させて、処分させて。
「……嫌だ……!!」
返して、と叫んだ自分の悲鳴で目が覚めた。
じっとりと肌に寝汗が滲んで、薄暗がりの中で瞬きをする。
(……夢……?)
夢だったのか、と周りを探ってみた手に、伝わって来た「本」の感触。
そういえば、寝る前に読んだのだった。
遠い故郷に思いを馳せて、「ピーターパン」を。
夢の中で故郷へ飛んでゆけたら…、と枕元にそっと本を置いて寝た。
(…ぼくの本…!)
まだ此処にある、と大切な本を抱き締める。
この本を失くしてたまるものかと、「マザー・イライザにも奪わせない」と。
(……もし、本当に処分されたら……)
憎い機械を許しはしないし、生涯かけて憎み続ける。
地球の頂点に立つ日を待たずに、クーデターさえ起こすかもしれない。
「今が勝機だ」と思ったら。
勝算があると踏んだ時には、海賊どもを味方に引き入れてでも。
(…ぼくは、絶対に許さない…)
これ以上、ぼくから奪わせはしない、と本を抱き締めて心に誓う。
マザー・イライザが何をしようと、「シロエ」は「けして、従わない」と。
大切な本を奪い去られても、けして機械に屈しはしない。
こんな夢さえ見てしまうほどに、「過去」を大事にしているから。
機械が何を消してゆこうと、「シロエ」そのものは「消せはしない」と思えるから…。
何を消されても・了
※ピーターパンの本をシロエが持っているのも不思議ですけど、持っていられるのも不思議。
何処かで処分されそうなのに、と思った所から出来たお話。シロエが見た悪夢。
(……サム……)
やはり今日も、私は「赤のおじちゃん」だったか…、とキースは深い溜息をつく。
国家騎士団総司令のための個室で、夜が更けた後に。
昼間は、サムの見舞いに出掛けた。
マツカやセルジュもついて来たけれど、「此処まででいい」と人払いをして。
サムの前では、「ただのキース」でいたい、と今も思っているから。
けれど、分かってくれないサム。
「赤のおじちゃん!」と懐いてくれても、「キースの友達」にはなってくれない。
正確に言うなら、「戻ってくれない」。
遠い昔に、サムの方から「友達」だと言ってくれたのに。
「友達とは、大切なものなのか?」と問うた自分に、「当然だろう!」と返したのに。
E-1077で過ごした頃には、サムが最初の「友達」だった。
そのサムの幼馴染だった縁から、スウェナ・ダールトンという友人も出来た。
きっと「シロエ」とも、機械が間に挟まらなければ、いい友になれていたのだろう。
シロエが「Mのキャリア」であろうと、そんなことなど、どうでもいい。
現に今では、「ミュウのマツカ」を側近にしているのだから。
口では何と言っていたって、「人類もミュウも、人間なのだ」と思うから。
(……今の私を構成している、この考え方は……)
恐らく、サムから貰ったもの。
マザー・イライザに「その気」が無くても、サムに教えて貰った「友情」。
「ヒトとしての心」も、サムから学んだ。
友達というのは、どうあるべきか。
真の友なら、友に対して見返りなど求めないことも。
そうやって共に、四年の間をサムと過ごした。
E-1077を卒業する時に、道が分かれてしまったけれど。
サムはメンバーズに選抜されずに、「ただのパイロット」の道に進んで。
メンバーズを乗せる宇宙船さえ、操縦できない「ただのパイロット」。
それきり、交わらなかった「道」。
サムとは出会う機会も無いまま、十二年もの時が流れた。
けれども「サム」を忘れなかったし、「いつか会える」と思ってもいた。
どんなに宇宙が広かろうとも、バッタリと。
任務で出掛けた先の星だの、宇宙に散らばる中継用のステーションだので。
(……また会えるのだ、と思っていたから……)
多忙な任務に忙殺されて、サムとの連絡は途絶えたまま。
「便りが無いのは元気な証拠」と、遥か昔の人間たちが言った通りに思い込んで。
実際、サムは「元気」ではいた。
ジルベスター星系での事故に遭うまで、病気一つせずに宇宙を飛んで。
チーフパイロットには、まだ手が届かなくても、副操縦士としては「一人前」に。
(……そのサムを、ミュウどもが壊してしまった……)
具体的には、何があったか分からない。
船の記録は消されていた上、ジョミー・マーキス・シンにも「尋ねてはいない」。
あまりにも腹立たしかったから。
「幼馴染だった、サム」を壊した輩に、尋ねたいとは思わなかった。
何を思って「そうした」のかは。
「サムだと知らずに」やったにしたって、サムは「キースの友達」だから。
その昔には「ジョミーの友」でも、今では違う。
サムが持っていた「最後の友達」、それを名乗れるのは「キース・アニアン」ただ一人だけ。
E-1077を後にしたサムは、「いつも一緒」の「友達」は持たなかったから。
宇宙を飛び回るパイロットの身では、友が出来ても、「ただの友達」。
出会えば一緒に食事をしたり、酒を飲んだり、そういった程度。
人のいいサムは、大勢の「友」に好かれていても。
彼が属していた基地などには、多くの「知人」や「友達」がいても。
サムの方でも、きっと「キース」を同じに思ってくれていたろう。
「一番の友達」と言えば「キース」で、「何処かで会えれば、いいんだがな」と。
思いやり深い人柄だけに、自ら訪ねて来なかっただけで。
(…サムと違って、私は目立っていたのだから…)
メンバーズになった「キース」のニュースは、サムの耳にも入ったと思う。
何処の星でどういう武勲を立てたか、どんな異名で呼ばれているか。
(……冷徹無比な破壊兵器に、「友達」が会いに現れたなら……)
マイナスの評価になりかねない、とサムならば、きっと考える。
「俺は会わない方がいいよな」と、「キースの評価」だけを思って。
偶然、再会するならともかく、「会いに行ってはいけない」と。
サムの方から来てくれていたら、心から歓迎したのだろうに。
周りが何と考えようとも、食事に誘って、泊まるホテルも用意したろう。
「せっかくだから、ゆっくりして行ってくれ」と。
「今夜は、夜通し語り合おう」と、酒を片手に昔語りをしたりもして。
サムが「シロエ」を忘れていたって、語り合える話題はいくらでもある。
メンバーズの任務は明かせなくても、愚痴だって聞いて貰えただろう。
なにしろ、相手は「サム」なのだから。
「…任務のことは、俺には分からねえけど…」と苦笑しつつも、相槌を打って。
出世のことしか考えない上司や、足の引っ張り合いばかりの世界のことも。
(……そういう話が、サムと出来ていたら……)
どれほど豊かな人生だったか、恵まれた日々を送れたことか。
残念なことに、「それ」に自分が気付いた時には、「サム」は何処にもいなかった。
ジルベスターでの事故で、心が壊れてしまって。
すっかり子供に返ってしまって、「キース」を忘れ去ってしまって。
今のサムにとっては、「キース」は親切な「赤のおじちゃん」。
友達だなどと思いはしないし、「ずっと年上の大人」なだけ。
「大人ばかりの病院」で暮らす、「可哀相な子供」と遊んでくれる「優しい人」。
もっとも「サム」には、両親がいるらしいけれども。
いつ訪ねても、「父さんが…」「ママが」と、両親の話を聞かされるから。
(……サムが、元通りになってくれたら……)
どんなに頼りになることだろう。
ジョミー・マーキス・シンのことなど、抜きにして。
「ミュウの長との、ツテが欲しい」と思いはしない。
そんなツテなど頼らなくても、ミュウどもの始末は自分でつける。
モビー・ディックごと焼き払うにしても、何処かの星ごと砕くにしても。
(…任務のことで、頼るつもりは無いのだが…)
友達としての「サム」がいたなら、「マツカ」のことを明かしただろう。
「実はな…」と、「マツカの正体」を。
人類の形勢が不利になっても、「マツカ」は最後まで残ろうとする。
そうなった時にどうすればいいか、サムなら一緒に考えてくれた。
「俺の船で、何処かに逃がしてやるか?」とも、言っただろう。
民間船なら、ミュウが陥落させた星へも、飛んでゆくことがあるのだから。
「ついでにだったら、乗せてやれるぜ」と、「乗せるための手段」も講じてくれて。
なんと言っても「サム」だから。
「みんな、友達!」と笑んだサムなら、「マツカ」とも、きっと「友達」になれた。
マツカも「サム」の言うことだったら、多分、聞き入れたのだろう。
ミュウとの最終決戦を前に、「何処かに逃げろ」と命じても。
「キース」の命令には従わなくても、「サム」がマツカに勧めたら。
「そうした方が、キースも安心なんだ」と、横から言葉を添えてくれたら。
(……私も、サムが操縦してゆく船ならば……)
安心してマツカを任せられたし、心残りは無かっただろう。
決戦の場に一人残った「キース」に、もう「友達」はいなくても。
サムもマツカも「安全な場所」へと飛び去って行って、一人きりでの戦いでも。
(…サムたちが、無事でいるのなら…)
たとえ負け戦だと分かっていたって、心は自然と凪いでいた筈。
「私は、やるべきことは、やった」と。
人類の指導者として作られた責務を、「最後まで果たし抜くのみだ」と。
そう、「作られた生命」なことも、「サム」ならば聞いてくれたのだろう。
逃げ場を持たない運命のことも、歩まされるしかない人生のことも。
(…お前の記憶が無かった理由は、それなのかよ、と…)
ただそれだけで、「サム」は済ませてくれたろう。
「機械が無から作ったキース」を、少しも気味悪がったりはせずに。
「俺たちとは違う人間なんだ」と、偏見の目を向けることなく。
(……お前も災難だったよな、とでも言ったのだろうな……)
「友達だった」サムならば。
今でもサムが、「友達」のままでいてくれたなら。
(……私は、友を失った……)
サムは今でも「友」だけれども、一方的に「友達」なだけ。
「キース」にとっては「友」のサムでも、サムにとってのキースは「赤のおじちゃん」。
友情の絆は繋がっていても、本当の意味での友情ではない。
サムの目に映る「キース」の姿は、「赤のおじちゃん」でしかないのだから。
おまけにサムは子供に戻って、「キース」を覚えていないから。
(……サムが、思い出してさえくれたなら……)
この先の道も、心強く歩んでゆけるのだろう。
ただ一人きりの戦場だろうと、サムもマツカも「逃げた」後でも。
けれど、その日は「来てくれない」から、溜息が零れてゆくばかり。
もう戻らない友を思って。
何度見舞いに訪ねて行っても、「語り合えない」友が「今でも、友だったなら」と…。
友と話せたら・了
※サムが「壊れていなかった」ならば、キースとの友情はどうなったかな、と考えただけ。
きっと友達のままなんだろうし、色々なことが変わっていたかも、と。そういうお話。
(……ピーターパン……)
思い出せないよ、とシロエの瞳から零れる涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで本を広げて。
故郷から持って来た本はあるのに、忘れてしまった故郷のこと。
この本をくれた両親の顔も、すっかりおぼろになってしまった。
マザー・イライザにコールされる度、一つ、また一つと欠けてゆく記憶。
ただでも消されてしまったのに。
「目覚めの日」を迎えた、誕生日の日に。
十四歳になった途端に、あの忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブに捕まって。
「捨てなさい」と命じた機械の声。
子供時代の記憶を捨てろと、それは「必要無いもの」だからと。
(…ぼくは「嫌だ」と言ったのに…)
そんな言葉は、機械に届きはしなかった。
抵抗する術さえ持っていなくて、無理矢理に奪い去られた全て。
気が付いた時は、もう「故郷」にはいなかった。
暗い宇宙を飛んでゆく船に、乗せられていて。
膝の上にあったピーターパンの本だけを除いて、何もかも全部失って。
(……この本は此処にあるけれど……)
それ以外に何も持ってはいない。
子供時代に好きだった物も、懐かしい故郷の風や光も。
大好きだった両親でさえも、会えないどころか「顔を忘れた」。
どんなに思い出そうとしたって、あちこちが欠けてしまっていて。
目鼻立ちさえ定かではなくて、瞳の色さえ分からなくて。
(……ピーターパンの本は、変わらないのにね……)
記憶にあるのと、何処も違っていない本。
表紙も挿絵も記憶そのまま、そっくり同じなピーターパンやティンカーベル。
何処も欠け落ちたりはしないで。
おぼろにぼやけてしまいはしないで、鮮明なままで。
だから余計に苦しくなる。
辛くて、たまらなくもなる。
「この本は、此処にあるのに」と。
ピーターパンの本が残っているなら、もっと他にも欲しかったのに、と。
(…この本も、とても大切だけど…)
故郷のことを覚えていたなら、どれほど嬉しかっただろう。
大好きな両親の記憶が残っていたなら、どんなにか心強かったろう。
こうして本が残っているより、その方が余程、良かったと思う。
ピーターパンの本は失くしても。
目覚めの日に「家から持って出掛けて」、それきり二度と見付からなくても。
(……目覚めの日には、荷物は持って行けない決まりで……)
学校でもそう教えられたし、両親も「その日の朝」になってから注意した。
「荷物を持って行っては駄目だ」と、温厚だった父も、優しかった母も。
けれど、従わなかった自分。
「邪魔になるなら、検査の間は何処かに置くよ」と。
成人検査とは何かも知らずに、健康チェックのようなものだと勘違いして。
(荷物は検査の邪魔になるから、持って行くな、って…)
きっとそういう意味なのだ、と考えたから「宝物の本」を持って出掛けた。
目覚めの日を迎えて旅立つ子供は、家には帰って来られない。
次に両親に会える時には、四年以上経っているだろう。
教育ステーションで学ぶ期間は、四年間。
少なくとも「それ」を終えない間は、故郷に帰ることは出来ない。
だから「思い出」が欲しかった。
両親と一緒に行けないのならば、大切にして来た「ピーターパンの本」がいい。
父が「パパも昔、読んだな」と笑顔になった本。
母に何度も「シロエは本当に、その本ばかり読んでいるのね」と笑われた本が。
そう思ったから、鞄に詰めて家を出た。
「この本と一緒に行けばいいや」と、未来への夢を心に抱いて。
ネバーランドよりも素敵な地球に行こうと、いい成績で成人検査を通過しようと。
なのに、失くしてしまった「全て」。
ピーターパンの本だけを残して、他はすっかり消し去られた。
まるで「最初から無かった」ように。
両親も故郷も、何もかもが儚い夢だったように。
(……本だけは残ってくれたけど……)
他を覚えていないのだったら、この本も「辛い思い出」になる。
幸せだった頃の微かな記憶は、ピーターパンとセットだから。
「ネバーランドに行こう」と夢を見たことも、その夢が「地球」に繋がったのも。
(……パパが話してくれたんだよ……)
地球は素敵な場所なのだ、と。
「シロエなら行けるかもしれないぞ」と、「地球」という言葉を教えてくれて。
憧れの「地球」には近付いたけれど、代わりに失くしてしまったもの。
最高学府のE-1077には入学できても、「子供時代」は戻って来ない。
四年が経って卒業したって、メンバーズの道が待っているだけ。
故郷は思い出せないままで。
両親の顔すら忘れ去ったままで、「次の段階」へと進むだけ。
機械は記憶を、「けして返してくれない」から。
いつか機械に「ぼくに返せ」と命じる時まで、記憶は戻ってくれないから。
メンバーズに選ばれ、任務で故郷の星に行っても、家には帰れないのだろう。
「何処にあったか」、住所も忘れてしまったから。
残っている高層ビルの記憶も、外観などが曖昧だから。
(…ピーターパンの本にも、家の住所は…)
何処を探しても書かれてはいない。
ネバーランドへの行き方だったら、消えずに本の中にあるのに。
「二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」と、記憶の中にも。
そんな記憶より、「家の住所」が欲しかったのに。
ピーターパンの本だけを持っているより、両親や故郷を忘れないままでいたかったのに。
(……この本があるから……)
自分は「シロエ」でいられるけれども、それは苦しいことでもある。
過去を手放さずに生きてゆくことは、此処では「良し」とされないから。
成長とは「過去を捨て去ること」で、SD体制の時代のシステムの要。
「過去にしがみつく」ような者は異端で、周りから脱落してゆくだけ。
誰も「過去」など求めないから。
苦しみもがいて縋り付かずに、未来へと歩むだけだから。
(…ぼくは間違えちゃったんだろうか…?)
あの日の朝に、「ピーターパンの本」だけを持って出掛けたことで。
禁止されていた筈の「荷物」を、一つだけ持っていたことで。
(もしも、この本が無かったら…)
記憶はすっかり書き換えられて、別の「シロエ」がいたのだろうか。
E-1077という場所に馴染んで、メンバーズの道を目指す「シロエ」が。
両親も故郷も忘れてしまって、過去に執着したりはしないエリートが。
(…そうなっていたら、楽だった…?)
きっとそうだ、と分かっているから辛くなる。
「そんな道」など、鳥肌が立つほどおぞましくても。
「全てを忘れてしまったシロエ」に、なりたいと思いはしなくても。
そうなれる道は「あった」のだから。
本を持たずに家を出たなら、きっと「忘れていた」だろうから。
(…この本を持って出てたって…)
機械の力が強かったならば、全てを忘れ去っただろう。
抗い、「嫌だ」と抵抗したって、テラズ・ナンバー・ファイブに負けて。
ピーターパンの本は残っていたって、「それが何か」は分からなくて。
(…ステーションに行く、宇宙船の中で…)
消えていた意識が戻って来たなら、自分は首を傾げたろうか。
膝の上にある本を眺めて、「この本は、何?」と。
『ピーターパン』と書かれたタイトルを読んで、パラパラめくってみたのだろうか。
その本が何の役に立つのか、意味はあるのかと考えながら。
そういうことになっていたなら、「ピーターパンの本」は、どうなったろう。
「シロエ」の記憶に、本が残っていなかったなら。
何度も触って確かめてみても、どうして本を持っているのか、全く覚えていなかったら。
(…きっと、みんなに訊いて回って…)
教官や職員たちにも尋ねて、その果てに得る答えは「こう」。
「ピーターパンの本」は、ただの『ピーターパン』というタイトルの「本」なのだ、と。
E-1077で使う教科書でもなく、参考書でもない「子供向けの本」。
(…そうなんだ、って分かったら…)
全てを忘れてしまった「シロエ」は、「ピーターパンの本」を捨ててしまっただろう。
「こんな本なんか持っていたって、何の役にも立たないよ」と。
それが自分の「宝物」だったとも知らないで。
「これだけは持って出掛けないと」と、規則を破って持ち出したことも思い出さずに。
(……そんなこと……)
ピーターパンの本を捨てる「シロエ」は「ぼく」じゃない、と震える肩。
それは「シロエ」とは違うシロエで、まるで全く「別の人物」。
そうは思っても、楽な道ではあったろう。
今の自分がそうなったように、涙が零れる夜などは無くて。
いつか行けるだろう「地球」を励みに、講義や訓練に打ち込み続けて。
そうやって目指す「素敵な地球」が、「ネバーランドよりも素敵な場所」とは気付かずに。
誰が自分に「地球」を教えたのか、それさえも微塵も考えないで。
(……そうなってしまうのと、今のぼくと……)
どっちが良かったんだろう、と「ピーターパンの本」を見詰めて考える。
答えは、いつも一つだけれど。
「忘れるよりは、今の方がいい」と。
どれほど苦しく辛い道でも、過去をすっかり失くすよりは、と…。
本があるから・了
※ピーターパンの本が好きだった記憶は「残っている」のがシロエですけど。
大事に持って来た本はあっても、肝心の記憶が無かったら…。何の本かも謎ですよね。
(…………)
ああ、とキースは「彼ら」を眺めた。
今日も「その時間」がやって来たのだろう。
強化ガラスの壁の向こうに、研究者たちの姿が見える。
水槽を満たした大量の水と、透明なガラスの壁を通して。
白衣を纏った一人の男が、水槽を向こう側から叩く。
まるで何かの合図のように、拳で軽く、コツン、コツンと。
(…………)
こちらは「見ている」ことしか出来ない。
周りに満ちた人工羊水、それの中では話せはしない。
口を開けても声は出せなくて、羊水が喉に、更に奥へと入り込むだけ。
もっとも肺まで入った所で、咳き込んだりはしないけれども。
「羊水の中で生きている」だけに、肺で呼吸はしていないから。
我ながら奇妙な生き物だと思う。
どういう仕組みで生きているのか、羊水の中で何故、生きられるのか。
胎児の時代ならばともかく、本来ならば、とうに「生まれた」後の肉体。
人工子宮から外に出されて、自分の肺で呼吸をして。
臍の緒から栄養を得たりはしないで、口から栄養素を摂って。
(……その臍の緒も……)
私には無いな、と改めて思う。
あるのは自分の身体一つで、水槽の中に浮いているだけ。
何処にも管など繋がっておらず、衣服さえも身に着けてはいない。
「生まれ出る時」を先延ばしにされ、もう胎児ではないというのに、胎児そのもの。
これは「そういう実験」だから。
三十億もの塩基対を機械が合成した上、それを繋いでDNAという名の鎖を紡ぐ。
「自分」は「無から作られた」もので、「その日が来るまで」水槽で育つ。
外の世界とは、何の繋がりも持たないままで。
生きてゆくための栄養も、呼吸も、知識さえも機械に与えられて。
いつか「理想の指導者」となるよう、進められているプロジェクト。
「キース」が立派に完成するまで、極秘の内に。
日々は水槽の中で過ぎてゆくだけで、何の会話も感慨も無い。
ただ、ぼんやりと浮いているだけ、こうして外を眺めているだけ。
「…今日も、そういう時間なのか」と。
「キース」の成長具合を見るべく、研究者たちが訪れる時間。
何かの記録をつけている者や、水槽を見上げて話し合っている者たちもいる。
いつも水槽を叩く男は、このプロジェクトのリーダーだろうか。
決まったように二回、「コツン、コツン」と叩いてくる。
「キース」の反応を見るように。
何も答えは返らなくても、きっと「何かが分かる」のだろう。
表情さえも変わらなくても、水槽の中で動くわけではなくても。
何故なら「彼らが作った」から。
機械が作った生命とはいえ、育ててゆくには人の手も要る。
「この生命」を維持してゆくには、膨大な作業が必要な筈。
強化ガラスの水槽にしても、マザー・イライザに「作れはしない」。
作れたとしても、「作るために必要だった機械」は、全て人間が用意したもの。
注文通りの部品を揃えて、必要な機材の準備もして。
何より、欠かせない「材料」。
水槽用の強化ガラスも、中に満ちている人工羊水も、ステーションでは調達できない。
マザー・イライザは「注文しただけ」、それ以上のことは何も出来ない。
E-1077を支配してはいても、所詮は機械なのだから。
このステーションから動けはしなくて、手足のように使っているのも「機械の一部」。
だから「キース」を作り出すには、「人の手」もまた欠かせない。
DNAを紡ぐ以前の時点で、塩基対を合成するための素材集めに使われた「人」。
そうして「キース」の形が出来たら、今度は生命の維持を助ける。
マザー・イライザには、出来ない部分をサポートして。
人工羊水の浄化システムやら、様々なものをチェックして。
「研究者たち」も、やはり「キースを作った」者。
最高の国家機密に関わり、E-1077に留まり続けて。
幾つもの失敗作から学んで、「完成品」の「キース」を作り上げるために。
なんという「生まれ」なのだろう。
まだ「生まれてはいない」けれども、いずれ此処から「生まれる」命。
「キース・アニアン」が成長し切った暁には。
一日に一度、水槽を叩きに来る研究者が、「これでいい」と判断した時に。
マザー・イライザの注文通りに、「理想の子」が出来上がったなら。
外に出すべき時が来たなら、「キース」は水槽の外に出される。
自分の肺で呼吸を始めて。
栄養は口から「食べ物」で摂って、大人に成長してゆくように。
(……私は、そのように作られたから……)
そのようにしか生きてゆけないのだな、と分かってはいる。
研究者たちが話す声さえ、この耳で聞いたことは無い。
彼らの名前を知りもしないし、水槽を叩く意味も知らない。
(……明日になったら、また来るのだろう)
今日と全く同じことをしに。
水槽をコツン、コツンと叩いて、何かのデータを記録したりして。
いつまでそうした日が続くのか、それさえも「自分」は知らないのに。
こうした「生まれ」が不自然なことも、まるで知らずに浮いているのに。
(……まるで知らない……?)
違う、と聞こえた心の声。
自分は「全てを知っている」から、こういう考え方になる。
けれども、それを何処で聞いたか、誰が自分に教えたのか。
ただ「浮いているだけ」の生命体には、それは不要な知識だろうに。
水槽から出される前の「キース」に、教えても意味は無いのだろうに。
(…何故だ?)
どうして私は知っているのだ、と冷えてゆく背筋。
表情さえも変わっただろうか、研究者たちが騒ぎ始めた。
水槽の方を指差して。
色々な計器を確認しながら、まるでパニックに陥ったように。
彼らの唇から読めた言葉は、こうだった。
「失敗作だ」と、「直ちに処分しなければ」と。
(失敗作…!?)
それに処分とは、と思った途端に、ゴボリと立ち昇った泡。
水槽の中の照明が落ちて、暗闇の中で息が出来なくなった。
そう、「人間」が溺れるように。
水の中では、呼吸など出来る筈もないから。
(……私を処分しようというのか…!?)
何故、と苦しむ時は長くは続かなかった。
サンプルにしようとしたのだろうか、苦悶の表情を浮かべないよう、注入された何かの薬物。
ただ陶然となった所で、意識は薄れて消えてしまった。
「キース」の命は終わったから。
新しい「キース」を作り出すべく、別の生命が用意されるから。
(……馬鹿な……!!!)
私が「キース・アニアン」なのだ、と上げた悲鳴で目が覚めた。
国家騎士団総司令の部屋で、夜の夜中に。
夜明けにはまだ遠い時間に、いつもと同じベッドの上で。
(……夢だったのか……)
ならば分かる、と思う「あれこれ」。
水槽の中に浮いていてさえ、自分の生まれを知っていたこと。
「キース」という自我を持っていたことも。
(…私は全てを知っているからな…)
E-1077を処分した時、フロア001で見て来た「全て」。
自分は何処から「作り出された」のか、どういう生命体なのか。
それを作った目的も。
人類の理想の指導者たるべく、様々な準備がなされたことも。
ミュウの長との接触があった、サムやスウェナといった友人。
それにミュウ因子を持った少年、セキ・レイ・シロエ。
「水槽から外に出された後」にも、まだプロジェクトは続いていた。
研究者たちは「消された」けれども、マザー・イライザが引き継いで。
「これから先は、機械でも充分、導いてゆける」と、計算ずくで。
そうして「生まれた」キース・アニアン。
今は国家騎士団総司令だけれど、いつかは国家主席になる。
マザー・イライザよりも上の機械が、そう決めたから。
宇宙を支配するグランド・マザーが、そのためのレールを敷いているから。
(…何もかも、人類のためなのだがな…)
その「私」が処分される夢か、と今の悪夢を思い出す。
珍しく寝汗さえかいているから、下手な戦場よりも酷かった夢。
「自分」が処分されるなど。
「失敗作だ」と断言されて、サンプルにされてしまうなど。
(……なんという……)
とびきりの悪夢というヤツだ、と額を押さえて、ふと気が付いた。
本当に悪夢だったけれども、それが「現実」なら、どうだったかと。
「キース」が処分されていたなら、その後は…、と考えてみて。
(…私があそこで処分されたら、次の「キース」の育成に…)
十数年はかかるのだろうし、全ては変わっていただろう。
サムもスウェナも「キース」に出会わず、幸せに生きていっただろうか。
もしも「キース」に関わらなければ、サムの人生も別だった筈。
E-1077などには来ないで、別の教育ステーションに行って。
(…養父母向けのコースに行ったら、パイロットになりはしないのだから…)
ジルベスターでの事故に遭いはしないし、今も元気でいただろう。
スウェナも平凡な道を歩んで、シロエも「マツカ」がそうなったように…。
(…誰にもミュウだとバレはしないで、私に撃墜されもしないで…)
何処かの星で、エリートとして生きていたかもしれない。
メンバーズにせよ、技術職にせよ、抜きん出た才能があったのだから。
(……さっきの夢は……)
もしかしたら私の願望なのか、と「自分の心」に苦笑する。
もしも「キース」が生まれなかったら、この後悔は、きっと無かった。
失敗作として処分されていたなら、誰も巻き込みはしなかった。
そう、「キース」さえいなかったなら。
サンプルにされてしまっていたなら、サムもシロエも、きっと平和に生きられたのに、と…。
水槽の悪夢・了
※いや、キースには水槽時代の記憶が微かにあるわけで…。こういう夢も見たかもね、と。
もしも「処分される夢」を見たなら、その願望があったんだろう、というお話。
※pixiv 撤収後、初のUPになります。今後は、まったり。