(……ピーターパン……)
思い出せないよ、とシロエの瞳から零れる涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで本を広げて。
故郷から持って来た本はあるのに、忘れてしまった故郷のこと。
この本をくれた両親の顔も、すっかりおぼろになってしまった。
マザー・イライザにコールされる度、一つ、また一つと欠けてゆく記憶。
ただでも消されてしまったのに。
「目覚めの日」を迎えた、誕生日の日に。
十四歳になった途端に、あの忌まわしいテラズ・ナンバー・ファイブに捕まって。
「捨てなさい」と命じた機械の声。
子供時代の記憶を捨てろと、それは「必要無いもの」だからと。
(…ぼくは「嫌だ」と言ったのに…)
そんな言葉は、機械に届きはしなかった。
抵抗する術さえ持っていなくて、無理矢理に奪い去られた全て。
気が付いた時は、もう「故郷」にはいなかった。
暗い宇宙を飛んでゆく船に、乗せられていて。
膝の上にあったピーターパンの本だけを除いて、何もかも全部失って。
(……この本は此処にあるけれど……)
それ以外に何も持ってはいない。
子供時代に好きだった物も、懐かしい故郷の風や光も。
大好きだった両親でさえも、会えないどころか「顔を忘れた」。
どんなに思い出そうとしたって、あちこちが欠けてしまっていて。
目鼻立ちさえ定かではなくて、瞳の色さえ分からなくて。
(……ピーターパンの本は、変わらないのにね……)
記憶にあるのと、何処も違っていない本。
表紙も挿絵も記憶そのまま、そっくり同じなピーターパンやティンカーベル。
何処も欠け落ちたりはしないで。
おぼろにぼやけてしまいはしないで、鮮明なままで。
だから余計に苦しくなる。
辛くて、たまらなくもなる。
「この本は、此処にあるのに」と。
ピーターパンの本が残っているなら、もっと他にも欲しかったのに、と。
(…この本も、とても大切だけど…)
故郷のことを覚えていたなら、どれほど嬉しかっただろう。
大好きな両親の記憶が残っていたなら、どんなにか心強かったろう。
こうして本が残っているより、その方が余程、良かったと思う。
ピーターパンの本は失くしても。
目覚めの日に「家から持って出掛けて」、それきり二度と見付からなくても。
(……目覚めの日には、荷物は持って行けない決まりで……)
学校でもそう教えられたし、両親も「その日の朝」になってから注意した。
「荷物を持って行っては駄目だ」と、温厚だった父も、優しかった母も。
けれど、従わなかった自分。
「邪魔になるなら、検査の間は何処かに置くよ」と。
成人検査とは何かも知らずに、健康チェックのようなものだと勘違いして。
(荷物は検査の邪魔になるから、持って行くな、って…)
きっとそういう意味なのだ、と考えたから「宝物の本」を持って出掛けた。
目覚めの日を迎えて旅立つ子供は、家には帰って来られない。
次に両親に会える時には、四年以上経っているだろう。
教育ステーションで学ぶ期間は、四年間。
少なくとも「それ」を終えない間は、故郷に帰ることは出来ない。
だから「思い出」が欲しかった。
両親と一緒に行けないのならば、大切にして来た「ピーターパンの本」がいい。
父が「パパも昔、読んだな」と笑顔になった本。
母に何度も「シロエは本当に、その本ばかり読んでいるのね」と笑われた本が。
そう思ったから、鞄に詰めて家を出た。
「この本と一緒に行けばいいや」と、未来への夢を心に抱いて。
ネバーランドよりも素敵な地球に行こうと、いい成績で成人検査を通過しようと。
なのに、失くしてしまった「全て」。
ピーターパンの本だけを残して、他はすっかり消し去られた。
まるで「最初から無かった」ように。
両親も故郷も、何もかもが儚い夢だったように。
(……本だけは残ってくれたけど……)
他を覚えていないのだったら、この本も「辛い思い出」になる。
幸せだった頃の微かな記憶は、ピーターパンとセットだから。
「ネバーランドに行こう」と夢を見たことも、その夢が「地球」に繋がったのも。
(……パパが話してくれたんだよ……)
地球は素敵な場所なのだ、と。
「シロエなら行けるかもしれないぞ」と、「地球」という言葉を教えてくれて。
憧れの「地球」には近付いたけれど、代わりに失くしてしまったもの。
最高学府のE-1077には入学できても、「子供時代」は戻って来ない。
四年が経って卒業したって、メンバーズの道が待っているだけ。
故郷は思い出せないままで。
両親の顔すら忘れ去ったままで、「次の段階」へと進むだけ。
機械は記憶を、「けして返してくれない」から。
いつか機械に「ぼくに返せ」と命じる時まで、記憶は戻ってくれないから。
メンバーズに選ばれ、任務で故郷の星に行っても、家には帰れないのだろう。
「何処にあったか」、住所も忘れてしまったから。
残っている高層ビルの記憶も、外観などが曖昧だから。
(…ピーターパンの本にも、家の住所は…)
何処を探しても書かれてはいない。
ネバーランドへの行き方だったら、消えずに本の中にあるのに。
「二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」と、記憶の中にも。
そんな記憶より、「家の住所」が欲しかったのに。
ピーターパンの本だけを持っているより、両親や故郷を忘れないままでいたかったのに。
(……この本があるから……)
自分は「シロエ」でいられるけれども、それは苦しいことでもある。
過去を手放さずに生きてゆくことは、此処では「良し」とされないから。
成長とは「過去を捨て去ること」で、SD体制の時代のシステムの要。
「過去にしがみつく」ような者は異端で、周りから脱落してゆくだけ。
誰も「過去」など求めないから。
苦しみもがいて縋り付かずに、未来へと歩むだけだから。
(…ぼくは間違えちゃったんだろうか…?)
あの日の朝に、「ピーターパンの本」だけを持って出掛けたことで。
禁止されていた筈の「荷物」を、一つだけ持っていたことで。
(もしも、この本が無かったら…)
記憶はすっかり書き換えられて、別の「シロエ」がいたのだろうか。
E-1077という場所に馴染んで、メンバーズの道を目指す「シロエ」が。
両親も故郷も忘れてしまって、過去に執着したりはしないエリートが。
(…そうなっていたら、楽だった…?)
きっとそうだ、と分かっているから辛くなる。
「そんな道」など、鳥肌が立つほどおぞましくても。
「全てを忘れてしまったシロエ」に、なりたいと思いはしなくても。
そうなれる道は「あった」のだから。
本を持たずに家を出たなら、きっと「忘れていた」だろうから。
(…この本を持って出てたって…)
機械の力が強かったならば、全てを忘れ去っただろう。
抗い、「嫌だ」と抵抗したって、テラズ・ナンバー・ファイブに負けて。
ピーターパンの本は残っていたって、「それが何か」は分からなくて。
(…ステーションに行く、宇宙船の中で…)
消えていた意識が戻って来たなら、自分は首を傾げたろうか。
膝の上にある本を眺めて、「この本は、何?」と。
『ピーターパン』と書かれたタイトルを読んで、パラパラめくってみたのだろうか。
その本が何の役に立つのか、意味はあるのかと考えながら。
そういうことになっていたなら、「ピーターパンの本」は、どうなったろう。
「シロエ」の記憶に、本が残っていなかったなら。
何度も触って確かめてみても、どうして本を持っているのか、全く覚えていなかったら。
(…きっと、みんなに訊いて回って…)
教官や職員たちにも尋ねて、その果てに得る答えは「こう」。
「ピーターパンの本」は、ただの『ピーターパン』というタイトルの「本」なのだ、と。
E-1077で使う教科書でもなく、参考書でもない「子供向けの本」。
(…そうなんだ、って分かったら…)
全てを忘れてしまった「シロエ」は、「ピーターパンの本」を捨ててしまっただろう。
「こんな本なんか持っていたって、何の役にも立たないよ」と。
それが自分の「宝物」だったとも知らないで。
「これだけは持って出掛けないと」と、規則を破って持ち出したことも思い出さずに。
(……そんなこと……)
ピーターパンの本を捨てる「シロエ」は「ぼく」じゃない、と震える肩。
それは「シロエ」とは違うシロエで、まるで全く「別の人物」。
そうは思っても、楽な道ではあったろう。
今の自分がそうなったように、涙が零れる夜などは無くて。
いつか行けるだろう「地球」を励みに、講義や訓練に打ち込み続けて。
そうやって目指す「素敵な地球」が、「ネバーランドよりも素敵な場所」とは気付かずに。
誰が自分に「地球」を教えたのか、それさえも微塵も考えないで。
(……そうなってしまうのと、今のぼくと……)
どっちが良かったんだろう、と「ピーターパンの本」を見詰めて考える。
答えは、いつも一つだけれど。
「忘れるよりは、今の方がいい」と。
どれほど苦しく辛い道でも、過去をすっかり失くすよりは、と…。
本があるから・了
※ピーターパンの本が好きだった記憶は「残っている」のがシロエですけど。
大事に持って来た本はあっても、肝心の記憶が無かったら…。何の本かも謎ですよね。