(マザー・イライザ…!)
母親面したコンピューターめ、とシロエが机に叩き付けた拳。
マザー・イライザの幻影が消えた辺りを、憎悪に満ちた瞳で睨んで。
たった今まで、其処にいた機械が纏っていた姿。
それに嫌悪を覚えるけれども、同時に覚える微かな思慕。
(…こうして、目の前に現れる時は…)
Eー1077で与えられた、この個室でも、コールされて行く広い部屋でも、起こる現象。
マザー・イライザは、最も身近な女性の姿で現れるもの。
コンタクトを取ろうと思った相手が、親しみやすさを抱くようにと。
(なんて機械だ…!)
それに、なんという酷いシステムだろう、と湧き上がる怒り。
ついさっきまで来ていた「マザー・イライザ」は、故郷の母の姿だったから。
語り掛けて来る言葉と、その内容とが、別物だったというだけで。
(……ママは、あんなこと……)
ぼくには絶対、言いやしない、と思うけれども、止められない、その姿への思い。
心の何処かで「ママだ」と叫んで、「彼女」の言葉に従いたくなる。
逆らい、反抗しなかったならば、「彼女」は、きっと優しいから。
記憶に残った母と同じに、「シロエ」と温かく呼び掛けてくれて。
(…だから嫌いなんだ!)
あんな機械、と乱暴に椅子を蹴り付けて立った。
このまま机の前にいたなら、マザー・イライザに取り込まれそうで。
再び、幻影が現れて。
「どうしました?」と柔らかい声音で、こちらの機嫌を窺いながら。
もしも心が晴れないのならば、悩みを聞いて対処するから、と。
(…それに騙されて、あいつの所に行ったなら…)
深く眠らされて心を探られ、またしても記憶を奪い去られる。
機械に都合の悪い部分を、摘み取るように。
システムに反抗しないようにと、その芽をチョキン、チョキンと切って。
誰がその手に乗るもんか、と机に背を向け、歩き出そうとしたけれど。
ピーターパンの本が置いてあるベッド、其処へ真っ直ぐ向かうつもりが…。
「あっ…!」
足を取られる物など無いのに、突然、掬われた足元。
怒りの余りに足が縺れたか、あるいは注意散漫だったか。
(…痛っ!)
したたかに床に叩き付けられ、走った痛み。
日頃、訓練でやっていることは、何も役立ちはしなかった。
部屋にいたから油断したのか、あるいは、所詮は付け焼刃なのか。
(…やらないと、上に行けないから…)
体術の訓練もしているけれども、ああいったことは好きではない。
空き時間にまで自主トレーニングをしている人種が、異次元の者に思えるほど。
(……本当のぼくは……)
この程度の実力だったりしてね、と顔を歪めて起き上がる。
「なんてザマだ」と、自分自身を嘲りながら。
「誰にも見られなくて良かった」と、「外で転んだら、笑い物だよ」と。
(…でも、痛かったな…)
転んだのなんて、久しぶりだ、と服を軽くはたいて、立ち上がって。
「部屋の中だから、汚れてないけど」と、膝の辺りなどを眺めた途端。
(……ママ……)
それに、パパ、と心の中を掠めた思い。
Eー1077に連れて来られる、遥か前のこと。
故郷のエネルゲイアにいた頃、幼い自分も、こうして転んだ。
「パパ、ママ、早く!」と、両親を呼びながら、元気一杯に駆けていた時に。
一緒に遊びに行った場所やら、街に出掛けた折なんかに。
(…躓いたり、滑ったりなんかして…)
アッという間に転んだ自分。
とても痛くて、おんおん泣いたものだけれども…。
(…大丈夫、って…)
起こしてくれた父の、大きかった手。
それから、怪我を手当てしてくれた、母の優しくて暖かかった手。
(…どっちも、此処には…)
もう無いんだ、と思い知らされ、ふらふらとベッドの端に座った。
「ぼくが転んでも、誰も助けてくれやしない」と。
今は怪我をしていないけれども、転んだことと、痛かったことは幼い子供だった日と同じ。
けれど、誰一人、来なかった。
誰も「大丈夫?」と尋ねてはくれず、具合を確かめてもくれない。
此処に故郷の母がいたなら、「大丈夫?」と訊いてくれるだろうに。
もう充分に大きい少年だけれど、転んだことに変わりはない。
運が悪ければ、打ち付けた場所にアザが出来ることもあるだろう。
もっと酷かったら、転んだはずみに…。
(足を捻って、捻挫するとか…)
そういったことも起こりかねない。
Eー1077で訓練を受けていなかったならば、そういったケースも無いとは言えない。
(…だから、きっと…)
母だったならば、駆け寄って来る。
何処か痛めていないだろうかと、慌てた様子で。
(パパだって…)
苦笑しながら、ゆっくりとやって来るだろう。
「おやおや、そんなに大きいのに」と、あの温かい笑みを浮かべて。
「転ぶだなんて、考え事でもしていたのかい?」と、可笑しそうに。
そうして顔では笑っていたって、父も心配してくれた筈。
転んで怪我をしてはいないか、足を捻ったりしなかったか、と。
(…パパ、ママ…)
此処には誰もいてくれないよ、と悲しくなる。
「ぼくは一人だ」と、「転んでも、誰も来てくれないよ」と。
(…もし、来るとしたら…)
マザー・イライザしかいやしないんだ、と寒くなる背筋。
今の「シロエ」を気に掛ける者は、あの忌々しい機械だけ。
それがイライザの役目とはいえ、なんと虚しい世界だろうか。
気に掛けてくれる者は誰もいなくて、機械が面倒を見てくれるなんて。
(……ゾッとしないよね……)
機械に心配されるだけだなんて、とベッドに腰掛け、身を震わせた。
転んだ痛みも、この恐ろしさの前には薄れて消えてゆくだけ。
(…ぼくを気にしてくれるのは…)
Eー1077の中では、マザー・イライザしかいない。
此処を卒業していった後は、別の機械がイライザに取って代わるのだろう。
なんという名か知らないけれども、行く先々を支配しているコンピューターに。
(出世して、地球に行ったなら…)
グランド・マザーが「シロエ」の心配をする。
国家主席の座に昇り詰めて、「止まれ」と命令するまでは。
機械が治める歪んだ世界を、この手で壊す瞬間までは。
(…転ぶどころか、大怪我をして…)
入院したって、誰も見舞いに来てはくれない。
友達を作らない限り。
マザー牧場で飼い慣らされた、羊を友にしない限りは。
(…そんな友達…)
御免だよね、と思いはしても、機械しか心配してくれないのは、悲しくて怖い。
命が危ういほどの怪我なら、どれほど心細いだろうか。
(ぼくは本当に治るのかな、って…)
包帯だらけで沢山の管に繋がれていても、慰めに来るのは機械だけ。
マザー・イライザがやっているように、恐らくは母の姿を取って。
「大丈夫、きっと治りますよ」と、枕元に幻影が現れて。
「痛みますか?」と触れて来る手には、温もりも質感も、微塵も無くて。
(…でも、そうなるんだ…)
このまま進めば、ぼくはそうなる、と容易に想像がつく自分の未来。
心を許せる相手なんかは一人もいなくて、何処までも孤独。
重傷を負って入院しても、機械が見舞いに来るだけで。
その傷が元で命を落とすことになっても、最期を看取ってくれる者など…。
(……いやしないんだ……)
故郷の両親がいてくれたならば、駆け付けて来てくれるだろうに。
最期まで「シロエ」の手を握り締めて、「死ぬな」と泣いてくれるだろうに。
(……どうすることも……)
出来やしないよね、と分かってはいる。
歪んだ世界を正さない限り、両親に再会出来はしないし、一緒に暮らすことも出来ない。
そして、その道を捨てない限りは、孤独が待っているということも。
(…もしも、其処から逃れたかったら…)
エリートになる道を諦め、一般市民になるしかない。
そちらのコースに進んだならば、「共に歩んでくれる誰か」を見付けることが出来るだろう。
機械が選んで勧めて来るのか、あるいは自分で選び出すのか。
(…どっちにしても…)
そこそこ気の合う、価値観も似た「配偶者」。
早い話が、「シロエの妻」になる女性。
(……ぼくは、女なんか……)
要らないんだから、と頭から決め付けて来たのだけれども、どうなのだろう。
妻がいたなら、さっきのような時だって…。
(いい年をした大人が転ぶなんて、って…)
笑いながらも、妻が側に来てくれる筈。
「何処か、痛む?」と、幻影ではない手で触れて。
転んだ拍子に怪我をしていたら、傷の手当てをして、心から心配してくれて。
(……大怪我をして、入院したって……)
機械の代わりに、毎日、見舞いに来るのだろう。
しかも機械の見舞いと違って、心の底から「シロエ」を気遣い続けてくれる。
今日は少しは顔色がいいか、退院の目途は立つだろうか、と。
「具合が良くなったら、何が食べたい?」と、微笑んで尋ねてもくれて。
(…そういう人が出来るから…)
一般市民も不満を持たないのかな、という気もする。
機械に支配されていたって、自分の幸せはあるものだから。
気遣ってくれる人が側にいて、独りぼっちではない人生。
それを歩んでいけるのならば、きっと満ち足りているだろうから。
(……でも、ぼくは……)
そっちの道には行けやしないんだ、と辛くて、涙が零れ落ちる。
既に選んでしまったから。
子供が子供でいられる世界を、この手で、必ず取り戻すと。
(…パパ、ママ…)
だから、その日まで待っていてね、と抱き締めるピーターパンの本。
懐かしい故郷に帰れた時には、心配してくれる人が出来るから。
もしも転んでしまったとしても、「大丈夫?」尋ねてくれる人たち。
「シロエ」が大人になっていたって、両親はきっと、気に掛けてくれる筈なのだから…。
一人きりの道・了
※シロエと言えば気が強いわけですけれど、本当は寂しがり屋だよね、と思うわけでして。
両親が忘れられないほどなら、孤独な人生も怖い筈。其処から生まれたお話が、コレ。