(この本の中には、別の世界が……)
あるんだよね、とシロエが零した小さな溜息。
Eー1077の夜の個室で、一人きりでベッドに腰を下ろして。
もっとも、宇宙空間に浮かぶステーションには、本物の夜など無いのだけれど。
(…この表紙みたいな、本物の空も…)
此処には無いよ、と眺めるピーターパンの本。
ただ一つだけ、故郷の星から持って来ることが出来た宝物。
ピーターパンの本の表紙には、夜空を翔けるピーターパンたちが描かれている。
この絵みたいに、自分も行ってみたかった。
子供が子供でいられる世界へ、ネバーランドへ。
(だけど、ピーターパンは迎えに来てくれなくて…)
とうとう、こんな牢獄まで連れて来られてしまった。
大好きだった両親の記憶も、故郷の記憶も、機械に奪い去られてしまって。
(…ピーターパンの本の中なら、そんなシステムなんか無いのに…)
SD体制なんか何処にも無いのに、と本のページを繰ってみる。
文字と挿絵の世界だけれども、その向こうには…。
(ピーターパンたちが住んでる世界が、ちゃんとあるんだよ)
人に話したら、「そんなものは全部、作り話だ」と、一蹴されるのだろうけれど。
作者が作った幻想の国で、何処にも存在するわけがない、と。
(……でも、ぼくは……)
ネバーランドは「在る」のだと思う。
ピーターパンの本の作者は、ネバーランドを「見られた」のだ。と。
きっとピーターパンにも出会って、その経験を書き残した。
作者のように子供の心を失くさなければ、誰でも行けるだろう世界。
こういう世界が「存在する」と、ピーターパンの本の形で。
(きっと、そうだよ)
そうでなければ、こんな世界は書けないだろう。
気が遠くなるような時を経てなお、色褪せることなく残る物語などは。
本の活字と、挿絵の向こう。
其処に在る筈の、ネバーランド。
今も行きたくてたまらない国、幼い頃から憧れた世界。
(…この本の中に、入れたら…)
入ってしまうことが出来たら、どんなに幸せなことだろう。
他の人たちは信じなくても、ネバーランドは、「在る」筈だから。
ピーターパンの本に入ってしまえば、その世界の中の、夜の彼方に。
(…二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ…)
本に書かれた、ネバーランドへ行くための方法。
ピーターパンが来てくれないなら、そうやって歩いてゆけばいい。
ひたすらに、ネバーランドを目指して。
二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ。
(……行きたいな……)
ネバーランド、と思うけれども、本の世界はどうだろう。
きっと何処かに「在る」だろう世界、別の次元とも言える空間。
(…訓練中の事故か何かで…)
亜空間ジャンプに失敗したなら、あるいは行けるかもしれない。
宇宙船から放り出されて、ピーターパンの本の世界へ。
時間も空間も全て飛び越え、ただ一人きりで。
(……えーっと……?)
ずっと昔のイギリスだっけね、とピーターパンの本の活字を追った。
人間が地球しか知らなかった頃の、大英帝国と呼ばれた国。
其処のロンドン、それが物語の始まりの場所。
(…うんと昔の、地球の、ロンドン…)
たった一人で落っこちたならば、どんな具合になるのだろうか。
(……言葉は、きっと問題ないよね)
ピーターパンの本が生み出されてから、訳された言語は星の数ほど。
幼かった頃の自分も読めたし、言葉は必ず通じるだろう。
イギリスの言葉を話せなくても。
其処の人たちが話す言葉が、今の世界とは違っていても。
(……よーし……)
それなら言葉は大丈夫、と「本の中の世界」を考えてゆく。
この世界から、突然、其処に落っこちたなら…。
(…着ている服が変だよね?)
宇宙服などは、まだ無い世界。
それを着たまま歩いていたなら、警察官が来るかもしれない。
「怪しい人間」を、捕まえて牢屋に放り込むために。
(……それはマズイよ……)
何処から来たのか素直に言っても、警察官に通じはしない。
どちらかと言えば、更に怪しまれるだけだろう。
「別の世界から来た」なんて。
それも遥かに遠い未来で、地球が一度は滅びてしまった後の世界など。
(…宇宙服なんか、サッサと捨てて…)
訓練用の服だけになれば、少しは誤魔化せそうだと思う。
ただし、イギリスの季節によっては…。
(寒いかもね?)
なにしろ、シャツとズボンだけ。
シャツも防寒用ではないから、冬だったら凍えてしまいそう。
(……ロンドンの冬って……)
雪も降るよね、と大変なことに気が付いた。
ピーターパンの本の世界に落っこちる時には、季節なんかは選べはしない。
たとえ真冬に落っこちようとも、「春にしてよ」と頼むだけ無駄。
そのまま其処で生きるしかなくて、寒くても自分で解決するしか道は無さそう。
火を焚くにしても、暖かい場所を探して彷徨うにしても。
(…うーん…)
いきなりサバイバルの実習だよ、と思ったけれども、いいかもしれない。
Eー1077で受ける訓練などより、ずっと楽しいことだろう。
寒さで凍えて震えていたって、其処は本物の地球だから。
宇宙ステーションとも、育英惑星とも違う正真正銘の地球。
其処で一人でサバイバルなら、かまわない。
どんなに雪が降りしきろうとも、吹き付ける風で身体の芯まで凍えようとも。
冬の最中に落っこちようとも、ピーターパンの本の世界なら文句は言わない。
ピーターパンが迎えに来るまで、其処で逞しく生き抜いてやる。
「二つ目の角を右に曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」、そういう道を見付けるまで。
Eー1077に入れたくらいのエリート、そんな人生なんかは要らない。
幼い頃から夢に見ていた、本の世界で生きられるなら。
寒さに凍えて、飢えていようとも、其処はロンドンなのだから。
(…ウェンディたちに会えればいいけれど…)
あちらは「シロエ」を知らないのだから、会えても不審がられるだろうか。
「あなたは、だあれ?」と。
おまけに、それに対する答えを、自分は持たない。
「別の世界から来たんです」としか、言えないから。
しかも自分の「元の世界」は、ウェンディたちから見たなら、地獄。
子供が子供でいられないどころか、人工子宮から子供が生まれて来る世界。
(どう考えても、悪魔の国だよ)
言えやしない、と思うものだから、ピーターパンに出会えるまでは…。
(……頼れる人なんか、誰もいないよ)
つまり、一人でサバイバル。
着る物も、食べ物も、寝る場所までも、全て自分で確保するだけ。
(…どうすれば生きていけるんだろう?)
ロンドンでサバイバルなんて、と想像してみて、絶望的な気持ちになった。
なにしろ、ロンドンは当時の大都会。
農村だったら、集落の外に森や林もありそうだけれど…。
(…そういうのは無くて、公園だよね?)
公園では、食べ物は見付かりそうにない。
そういった場所で狩りは出来ないし、木の実も採っては駄目なのだろう。
(川で釣りとか…?)
魚だけは、なんとか手に入るかな、と思うけれども、パンなどは無理。
(…いっそ、その辺の露店から…)
盗んで逃げるか、それが嫌なら物乞いするか。
なんとも厳しい世界だけれども、今の世界より、遥かにいい。
「生きているんだ」という感じがするから、本の世界でも「本物」だから。
(……行ってみたいな……)
物乞いでしか生きていけなくても、と夢を見ないではいられない。
ピーターパンの本の世界に入れるのならば、それでいい、と。
生きてゆくのが大変だろうと、自分が自分でいられる世界。
(…マザー・イライザなんかはいなくて…)
記憶を操作されはしないし、捕まえに来るのは警察官だけ。
「怪しい奴だ」と追って来るのか、「コソ泥めが!」と追い掛けて来るか。
(追い掛けられても…)
捕まらないように逃げて回って、ネバーランドへ行く道を探す。
「二つ目の角を右へ曲がって、後は朝まで、ずっと真っ直ぐ」、そういう道を。
そうやって懸命に生きていたなら、その内に…。
(きっと、ピーターパンが見付けてくれるよ)
盗みをするような「悪い子」だろうと、それは「盗まないと死んでしまうから」。
ネバーランドに行きたいあまりに、別の世界から来た「子供」。
(…悪い子じゃない、って、ピーターパンには分かる筈…)
そしたら、ネバーランドに行ける、と膨らむ夢。
ただ一人きりのサバイバルでも、冬のロンドンでも、かまわない。
ピーターパンの本の世界に入って、その中で生きてゆけるなら。
宝物の本の挿絵の一つに、「シロエ」が描かれてしまおうとも。
(…端っこの方で、ボロを着ていて…)
裸足で歩いている姿だろうと、其処に入ってしまえるならいい。
Eー1077よりも遥かにいいから、「生きている」と心から思えるから。
(…本当に、この本の中に入れるんなら…)
真冬に物乞いでもかまわないよ、とピーターパンの本を抱き締める。
「行けたらいいな」と。
訓練中の事故で落っこちようとも、後悔なんかは微塵も無い。
今、生きている「この世界」よりも、本の中の方が「いい」世界だから。
子供が子供でいられる所で、機械に支配されてもいない。
だから行きたい、と焦がれる気持ちは、止まらない。
どんなに暮らしが大変だろうと、本の中には、「本物の世界」があるのだから…。
本の中の世界・了
※元ネタは『ふしぎ遊戯』と、アメリカドラマ『ワンスアポンアタイム』のベルファイア。
アニテラの方のシロエだったら、このくらいの夢は見られる筈。冬のロンドンでサバイバル。