「パパ、ママ、早くぅ!」
そう叫んだ声で、シロエは目を覚ました。
「……パパ?」
ママ、と飛び起きて見回したけれど、両親の姿は何処にも無かった。
代わりに視界に入って来たのは、見慣れてしまった牢獄の景色。
教育ステーション、E-1077で割り当てられた「シロエ」の個室。
(……夢……)
夢だったんだ、とシロエはベッドの上で膝を抱えて座り込んだ。
確かに両親と過ごしていたのに、見ていたものは、ただの幻。
自分はこうして囚われていて、故郷に帰ることさえ出来ない。
その上、懐かしい両親の面影さえも…。
(…もう覚えてはいないんだ…)
機械に消されてしまったから、と涙が頬を伝ってゆく。
成人検査で過去を奪われ、このステーションに送り込まれた。
その日からずっと牢獄暮らしで、機械に監視される毎日。
(……いつか必ず、国家主席に昇り詰めて……)
SD体制を破壊してやる、と心に誓っているのだけれども、そう出来る日は遥か先。
何年かかるか見当もつかない、気の遠くなるような未来のこと。
(…それまでに何度、泣くんだろう…)
今夜のように、夜中に目を覚まして。
夢に見ていた両親のことや、故郷の景色を懐かしんで。
(……懐かしむ?)
あれっ、と引っ掛かった「それ」。
夢の世界で「パパ、ママ、早くぅ!」と両親を呼んでいた自分。
其処で「自分」が呼んだ相手は、顔がぼやけて定かではない、そんな状態ではなかった筈。
今の自分が思い出そうと頑張ってみても、「そういう顔」しか思い出せないけれど。
まるで焼け焦げた写真みたいに、あちこちが欠けておぼろな両親の顔。
幼い自分が「それ」を見たなら、きっと怖くて声さえも出ない。
両親ではなくて、「オバケ」だから。
オバケが両親に化けて出て来て、両親のふりをしているだけで。
(……うん、絶対に……)
小さい「ぼく」は怖がるだけ、と確信を持って言い切れる。
今の自分が記憶している「両親の顔」は、幼い自分には恐ろしいだけ。
「どうして顔が欠けちゃってるの」と、「これはオバケに違いないよ」と。
(…怖がることを知らないくらいに小さくっても…)
そういう顔の両親を見たら、きっと無邪気に尋ねるだろう。
「パパもママも、お顔、どうしちゃったの?」と。
「どうしてあちこち欠けちゃってるの」と、「お目々や、お鼻は?」と。
(……でも、怖がってはいなかったんだ……)
夢の中の世界にいた「ぼく」は、と頬を伝う涙をグイと拭って、顎に当てた手。
幼かった日の自分が見たなら、恐ろしい筈の両親の顔。
それを「怖い」と思いもしなくて、「変だ」と感じもしなかった。
どちらかになる筈なのに。
自分の記憶の中の両親、その顔が「欠けている」からには。
(それなのに、ぼくは怖がってなくて…)
怖がるどころか、その両親に呼び掛けていた。
「パパ、ママ、早くぅ!」と。
早く一緒に何処かへ行こう、と幼い心を弾ませて。
プレイランドにでも向かっていたのか、あるいはピクニックの途中だったか。
とにかく楽しい「何処か」へ向かって、幼い自分は走っていた。
両親よりも一足お先に、張り切って。
転びそうなくらいの勢いで駆けて、「パパ、ママ、早くぅ!」と。
両親の歩みが、じれったくて。
もっと急いで走って欲しくて、後ろを振り返って叫んだ自分。
(…手も振ってたよね?)
早く、と大きな声で叫んで。
「ぼくの所まで早く来てよ」と、精一杯に。
両親の顔を「怖い」と思わず、はしゃいで手まで振っていた自分。
「パパ、ママ、早くぅ!」と呼び掛けた自分。
幼かった日の自分にとっては、絶対に「怖い」筈なのに。
「怖い」と感じられないくらいに幼かったら、「変だよ」と思う筈なのに。
(……それなのに、怖がってなかったってことは、もしかして……)
夢で自分が見ていた両親、その顔は「本物」だったのだろうか。
何処も全く欠けてはいなくて、おぼろでもなくて、幼かったシロエが「見た通り」の。
今も懐かしくてたまらない顔、どうしても思い出せない「それ」。
(…それを見ていた?)
夢の中で、と暗い部屋の中で目を凝らす。
「もしかしたら」と。
(……夢の中の世界で、ぼくが見たのは……)
機械が消してしまった記憶の世界で、其処では全てが「昔のまま」。
優しかった両親の顔はもちろん、故郷の景色も「そっくりそのまま」。
そうだったのなら、納得がいく。
「怖い」とも「変だ」とも思いもしないで、両親に向かって呼び掛けた自分。
小さな手を振り、「パパ、ママ、早くぅ!」と、元気一杯に。
なにしろ自分が叫んだ先には、ちゃんと両親がいたのだから。
記憶の中から消される前の、温かい笑顔そのままで。
あのまま夢を見続けていたら、きっと…。
(そんなに走ると転ぶぞ、シロエ、って…)
父が追い付いて来たのだろうか、幼い「シロエ」が転ぶ前に、と。
それとも「シロエ」は転んでしまって、痛くて大泣きしたのだろうか。
母が慌てて駆け寄る姿が目に見えるよう。
「ケガしちゃったの?」と、「血は出ていない?」と。
(……ケガしちゃってたら、パパが背中に背負ってくれて……)
大きな背中で揺られながら「何処か」へ向かったろうか。
まだ、おんおんと泣きじゃくりながら、それでも「何処か」へ行きたくて。
諦めて帰ることなど出来ずに、「行くんだもん」と。
(…その可能性は高いよね…)
夢の中では、両親も故郷も、変わってはいない可能性。
「怖い」と思っていなかったのだし、その可能性は大いにある。
そうだとしたなら、機械が消してしまった過去の記憶は…。
(……自分では見付けられない場所に……)
今もそのまま深く埋まって、起きている時は取り出せない。
機械にそういう暗示をかけられ、ロックされている状態になって。
(だけど、眠っている間には…)
意識して取り出すわけではないから、機械が施した暗示は効かない。
だから「昔のままの両親」の姿や、故郷の景色が顔を出す。
そして其処では、懐かしい世界で自由に過ごせるのだけれど…。
(夢から覚めたら、ロックがかかって…)
見ていた筈の過去の全ては、おぼろなものへと変わってしまう。
どう頑張っても、自力では思い出せないものに。
確かに「この目で見た」筈だけれど、その記憶さえも曖昧になって。
(…よく考えたら、記憶を消去するよりは…)
暗示をかけてロックした方が、何かと便利なのかもしれない。
いくら不要な記憶とはいえ、それらが「シロエ」を作り上げて来た。
他の候補生たちや教師や、一般市民や軍人にしても、其処の所は変わらない。
個々の個性や人格などを形成した過去、それを完全に消去したなら…。
(……何処かに大きな歪みが生まれて……)
立派な大人に生まれ変わる代わりに、廃人になるとか、狂うだとか。
そういう危険がある気がする。
全員がそうはならないとしても、リスクはゼロではないだろう。
(…暗示をかけて、ロックだけなら…)
恐らくリスクは遥かに低くて、機械の手間も少ない筈。
暗示をかけるだけとなったら、催眠術のようなものだから。
わざわざ脳を弄らなくても、簡単な作業で済むのだから。
(そうなると、夢の中でなら……)
シロエは「シロエ」のままなのだろうか、エネルゲイアで暮らした頃の。
両親の顔を忘れてはいない、記憶を奪われる前の状態。
(…夢の中では、ロックが外れるんだから…)
何も失くしてはいない「シロエ」が、以前と変わらずに駆け回っている。
時には幼い子供に戻って、「パパ、ママ、早くぅ!」と。
楽しい「何処か」に早く行こうと、両親に向かって手を振ったりして。
(……あのまま、夢が終わらなかったら……)
今頃はきっと、目的地に着いていただろう。
プレイランドで遊んでいるのか、ピクニックに出掛けてはしゃいでいるか。
幸せな夢の「続き」の世界を、じっくりと見てみたかった。
目覚めた途端に、それらはぼやけて、おぼろになってしまったとしても。
「いったい何処へ行ったんだっけ?」と、定かには思い出せなくても。
(…それでもいいし、本当に夢の中でなら…)
記憶を失くしていないというなら、永遠に目覚めなくてもいい。
お伽話の眠り姫みたいに、百年も目覚めないままでも。
機械の魔女の呪いにかかって、SD体制が終わる時まで、昏々と眠り続ける身でも。
(…目が覚めた時には、何もかもが…)
元の通りに戻っているなら、いったいどれほど幸せなことか。
けれど、目覚めずに眠り続けて、永い永い時を費やしたならば…。
(パパもママも、とっくに死んでしまって…)
懐かしい故郷に戻ってみたって、どうにもならないことだろう。
今でも会いたくてたまらない両親、その二人ともが「いない」なら。
いくら記憶が戻っていたって、両親が死んでしまっていたら。
(……眠り姫になれたら、うんと幸せで楽なんだけど……)
そうやって逃げてしまった先には、両親のいない世界があるだけ。
夢の中では両親がいても、目覚めた時には、とっくに死んでしまっていて。
「めでたし、めでたし」で終わってはくれず、ただ悲しみに暮れるしかない。
(…逃げられないよ…)
やっぱり機械と戦って勝つしか道は無いみたい、と拳を固く握りしめる。
両親を、記憶を取り戻すためには、それしか無いから。
気が遠くなるほど長い道でも、それを歩いてゆくしかないから。
国家主席の座に昇り詰めて、この手で機械を止める時まで。
SD体制が終わる時まで、奪い去られた記憶の全てが、再びこの身に戻る時まで…。
夢の中でなら・了
※サムが子供に戻ったということは、子供時代の記憶は「完全に消えてはいない」筈。
だったら、夢の中では過去の記憶が顔を出すかも、と思った所から生まれたお話。