(…記憶が無い…?)
それをシロエが耳にしたのは、ほんの偶然。
休み時間に故郷のデータを眺めていた時、聞こえて来たキースの噂話。
成人検査よりも前の記憶が無いという。
「機械の申し子」と呼ばれる彼には。
一瞬、よぎった憤り。
自分はこうして、懸命に記憶を繋ぎ止めようともがいているのに。
成人検査で消された上に、遠ざかり薄れてゆく記憶。
まるで自分が…。
(…最初からいなかったみたいに…)
故郷には、エネルゲイアには。
教育ステーションから全てが始まったかのように、一つ、また一つと記憶が消えて。
ピーターパンの本が無ければ、とうに壊れていたかもしれない。
自分の心は、耐えきれなくて。
両親に買って貰ったお気に入りの本、「これだけは」と大切に持って来た本。
あれがあるから、「確かに故郷にいた」と思える。
ピーターパンの本と一緒にエネルゲイアに、両親の側に。
(…他のみんなは馴染んでいくのに…)
どうしても馴染めない、異質な自分。
手から零れる砂粒のように消えてゆく記憶、それが欲しくて。
どんなに勉強に打ち込んでみても、好成績を叩き出しても、少しも満足出来ない自分。
(知識なんかは要らないから…)
失くした記憶を返して欲しい。
それと引き換えに最下位になって、エリートの道から放り出されても。
一般人向けのステーションへと、放校処分になったとしても。
けれど、叶いはしない夢。
逃げ場所は無くて、成績だけが上がり続けて。
代わりに失くしてゆく記憶。
昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな具合に、一つ、二つと。
それが辛くて、ただ悲しくて。
いっそ全てを忘れられたらと、苛立つことさえあるくらい。
それを望んではいないのに。…本当は忘れたくなどないのに。
(…なのに、あいつは…)
キースは持っていないという。
自分が必死に縋り付く過去を、戻りたいともがき続ける過去を。
なんと憎らしい奴だろう。
この苦しさを、悔しさを全く感じないキース。
記憶が無いなら、戻りたくなることはないから。
帰りたいとも、まるで思わずに済むのだから。
元から好きではなかったけれども、一層増したキースへの敵意。
自分とは逆の人間だから。
過去にしがみ付き、皆から外れてゆくだろう自分。
それとは全く逆なのがキース、何の苦労もしていないキース。
過去の記憶を持たないのならば、此処での道に何の疑問も無いだろうから。
(……あんな奴……)
幸福なキース、戻りたい過去を持たない人間。
あまりに憎くて、腹が立つから。
彼にも自分と同じ苦痛を味わわせたいと思う、出来ることなら。
過去を持たないなら、突き付けてやって。
キースが失くした大切な記憶、その欠片で心を抉ってやって。
(あいつだって、きっと…)
失くしたのだと気が付いたならば、衝撃を受けることだろう。
どうして自分は忘れたのかと、何も覚えていないのかと。
故郷のことやら、両親のこと。
お気に入りだった本だって。
(…忘れたんだ、って思い知ったら…)
自分の比ではないだろうと思う、キースが覚える喪失感は。
彼は何一つ持たないのだから。
「これを見ろ」と喉元に突き付けてやる、小さな記憶の欠片さえをも。
けれど、突き付けたそれは心を深く抉って、赤い血が噴き出すことだろう。
他の欠片は何処へ行ったかと、いったい何を失くしたのかと。
キースの心は千々に乱れて、その場で砕け散るかもしれない。
いつも自分が恐れている破滅、それに飲まれて。
自分が自分でなくなってゆく恐怖、それに心を食らい尽くされて。
憎らしいキース。
過去の記憶を持っていないらしい、幸福なキース。
彼が壊れてしまったならば、きっと爽快な気分だろう。
やはり自分は正しかったと、過去の記憶はとても大切なものなのだと。
持たない者の方が変だと、自分は間違っていないのだと。
(…此処の奴らも、マザー・イライザも…)
自分の記憶を奪ったテラズ・ナンバー・ファイブも、狂っている。
このシステムも、成人検査も、何もかもが。
それなのに、誰も指摘しないから。
気付きもしないで、記憶を持たないキースを皆が褒めるのだから。
(…ぼくがあいつを壊してやる…)
記憶の欠片を突き付けてやって。
鋭いそれで心を抉って、喉笛も一気に切り裂いてやって。
そう、悲鳴さえも上げられないように。
奈落の底へと叩き落とそう、キースが失くしたものの大きさを思い知らせて。
(キースの記憶…)
何でもいいから手掛かりを一つ、と立ち上げた画面。
自分の部屋で明かりを落として、呼び出したキースのパーソナルデータ。
(ナンバー、076223、キース・アニアン…)
出身地、トロイナス。
父、フル。母、ヘルマ。…生年月日、SD567年12月27日。
そして…、と辿るキースの情報。
どの船でいつ此処に着いたか、誰が一緒に乗っていたのか。
(…見ていろよ、キース…)
最初は欠片でなくてもいい。
ただの断片、それだけでいい。
繋ぎ合わせて、抉る刃を作り上げるから。
キースが失くした記憶の欠片を、キースの心を抉る刃を。
記憶を持たない幸福なキース、彼の澄ました顔を壊してやりたいから。
自分が味わった以上の苦しみ、それを与えてやりたいから。
記憶を失くしてゆくことの辛さ、悲しさ、それに悔しさ。
(キース・アニアン…)
喪失感に飲まれ、壊れるがいい。
お前がそうして澄ましている間に、なんとしても調べ上げるから。
失くしただろう過去の記憶を、きっと見付けて突き付けるから。
思い知るがいい、何を失くしたか。
記憶の欠片を突き付けてやって、お前を地獄に叩き落とすから…。
抉りたい心・了
※キースを陥れるつもりで、破滅への道を歩き出してしまったのがシロエ。
踏み出した瞬間はこんな感じだったのかも、と。勝つ気満々、やらなきゃいいのに…。