(……パパ、ママ……)
帰りたいよ、とシロエの瞳から零れる涙。
E-1077の夜の個室で、ただ一人きりで机に向かって。
其処に広げた、宝物のピーターパンの本。
子供時代と今とを繋ぐ、唯一の絆。
何故なら、「忘れてしまった」から。
それを贈ってくれた両親も、本を読んでいた故郷のことも。
何もかも機械に奪い去られて、すっかりぼやけてしまった過去。
微かに残った記憶でさえも、「本当のもの」かどうかは怪しい。
あの忌まわしい成人検査をやった機械は、「捨てなさい」と命じたから。
大人の社会へ旅立つのならば、子供時代の記憶は要らない。
それを捨て去り、代わりに「社会の仕組み」を学ぶ。
成人検査は、「シロエ」の全てを曖昧にした。
E-1077で、これから先に生きてゆく道で、役に立つだろうことを除いて。
勉強のことは覚えていたって、家でのことは思い出せない。
朝、学校へ向かう前には、どんなやり取りがあったのか。
「ただいま」と家に帰った時には、母たちと何を話したのか。
(…少しくらいは覚えてるけど…)
肝心の顔が、母たちの表情が抜け落ちた記憶。
まるで焼け焦げた写真みたいに、あちこちが欠けてしまっていて。
そうなった今も、忘れることが出来ない両親。
大好きだった、故郷の家。
あそこに帰ることが出来たら、と何度夢見たことだろう。
なんとかして此処から出られないかと、様々な道を模索してもみた。
船を奪って逃亡するとか、故郷に向かう船に密航するとか。
けれども、どれも叶いはしない。
このステーションを支配している、マザー・イライザ。
至る所に目を光らせる憎い機械が、「シロエ」を監視しているのだから。
帰りたくても、帰れない故郷。
机に広げたピーターパンの本は、間違いなく其処からやって来たのに。
「シロエ」と一緒に宇宙を旅して、今だって手に取れるのに。
(……ピーターパンの絵は、ずっと同じで……)
幼い頃の記憶そのまま、何処も変わっていはしない。
夜空を駆けるピーターパンも、背に翅を持ったティンカーベルも。
彼らの姿は、ずっと昔から少しも変わっていないのだろう。
SD体制が始まるよりも昔に、『ピーターパン』の本が生まれた時代から。
ほんの少しずつ、時代に合わせて、服のデザインなどは変わっても。
誰が挿絵や表紙を描くかで、雰囲気が変わることはあっても。
(ピーターパンは、誰が見たって、ピーターパンで…)
直ぐに「彼だ」と分かるもの。
それに比べて、今の自分はどうだろう。
何処かで「父」に出会った時に、「パパだ!」と見分けられるだろうか。
いつの日か「母」とすれ違った時、「ママだよね?」と呼び止められるだろうか。
これほど記憶がぼやけてしまうと、その自信さえも無くなってくる。
両親と同じような体格、それに髪型の人を見たなら、思わず声を掛けそうで。
人違いだとは気付きもしないで、「ぼくだよ!」と駆けてゆきそうで。
(…人違いですよ、って言われたら…)
どんなに悲しいことだろう。
一度や二度なら「間違えちゃった」で済むだろうけれど、それを何度も繰り返したら。
エネルゲイアに出掛けた時さえも、見分けが付かなかったら。
(……今のままだと、そうなるのかも……)
記憶は日に日に薄れてゆくから、本当に忘れ去ってしまって。
辛うじて覚えていた特徴さえ、いつか記憶から消えてしまって。
「大好きだった」ことは忘れなくても、もはや欠片も浮かびはしない両親の姿。
立ち姿さえも、シルエットで。
そのシルエットも、誰のものとも掴めない形になってしまって。
もし、そうなったら、何処に帰ればいいのだろう。
いつか必ず帰りたいのに、両親を忘れてしまったら。
「パパ、ママ!」と家へと駆けて行っても、「知らない誰か」が出て来たなら。
(……そんなこと……)
とても耐えられやしない、と分かっているから、懸命に記憶を繋ぎ止める。
コールされる度に、薄れて消えてゆくものを。
機械が消そうと試みる「それ」を、ただ手探りでかき集めて。
(……大丈夫……)
まだ幾らかは覚えているから、と両親の顔を思い浮かべる。
「パパは、こういう人だったよ」と、「ママも、こういう感じだっけ」と。
こうして努力を続けていたなら、きっと再会出来るのだろう。
記憶は戻って来てくれなくても、「パパだ!」と宇宙の何処かで気付いて。
エネルゲイアに立ち寄るような機会があったら、「ママ!」と母を呼び止めて。
(それが出来たら…)
どんなに幸せなことだろう。
ぼやけてしまった両親の顔は、ちゃんと戻って来てくれるから。
それまでに流れた月日の分だけ、年齢を重ねてしまっていても。
幼かった「シロエ」を抱き上げてくれた父の腕では、もう抱き上げては貰えなくても。
(ぼくも大きくなっちゃったから…)
まだこれからも成長するから、父の腕では抱き上げられない。
「ずいぶん大きくなったんだな」と、目を細めて笑ってくれるだろうか。
「パパには、とても抱き上げることは出来ないぞ」と、困ったように。
母も隣で笑うだろうか、「腰を傷めてしまうわよ」などと。
(…うん、頑張って忘れずにいたら…)
夢は叶うに違いない。
諦めないで、遠い故郷を思っていたら。
両親に会える時を夢見て、薄れる記憶を手放さないで生き続けたら。
(…きっといつかは、帰るんだから…)
機械に奪われた過去を取り戻せたら、帰りたい故郷。
けれど、それには時間がかかるし、その前にも出来れば帰ってみたい。
国家主席の座に昇り詰めて、機械に「止まれ」と命じる前に。
「ぼくの記憶を全部返せ」と、機械に命令するまでに。
(…ぼくの姿が、そんなに変わらない内に…)
少年から青年に育った程度で、今の面影がある内に。
「パパ!」と呼んだら、「シロエ?」と驚きの声と笑顔が返るよう。
母にしたって、「まあ、シロエなの?」と、喜んで抱き締めてくれるよう。
(…パパやママに会えたら、家にも連れてって貰えるよね?)
何処にあったかも忘れてしまった、懐かしい家に。
高層ビルだったことしか記憶には無い、「シロエの部屋」があった所に。
感動の再会を果たした後には、歓迎のパーティーもあるのだろうか。
「大人になったシロエ」は酒も飲めるし、両親と乾杯なんかもして。
(家にいた頃は、ジュースで乾杯だったけど…)
父がとっておきの酒を開けるとか、母がシャンパンを買いに出掛けるだとか。
テーブルには御馳走がズラリと並んで、「シロエ」を迎えてくれるのだろう。
今では思い出せない好物、それを幾つも母が作って。
「シロエは、これが好きだったでしょ?」と、腕によりをかけて。
(…ママが料理を作ってくれたら…)
失くした記憶も戻るだろうか、「これが大好きだったんだよ」と。
記憶の欠片を一つ拾ったら、次々に思い出すのだろうか。
「こっちの料理も好きだったっけ」と、「うん、ママの味!」と頬張って。
父が「久しぶりだから、うんと沢山食べなさい」と微笑んでくれて。
そういう日が、いつか来てくれたらいい。
任務の途中で寄っただけなら、一晩だけで「お別れ」でも。
楽しいパーティーが終わった後には、宿に帰るしか道が無くても。
「ぼくは今日しか、休みじゃないから」と、後ろ髪を引かれる思いでも。
両親に「さよなら」と手を振った後は、ホテルに戻ってゆくしかなくても。
それでも、そういう日が来たらいい。
両親の家で、揃ってテーブルを囲めたらいい。
何年分かの年を重ねた両親は、いくらか老いてしまっていても。
「シロエ」もすっかり青年になって、子供時代の服は、もう着られなくても。
(…こんなに小さい服だったっけ、って思うのかな?)
それに机や椅子だって…、と子供部屋のことを頭に描く。
懐かしい家に帰った時には、其処の中身は「小さくなっている」のだろうと。
「シロエ」が大きくなった分だけ、服も、机も、椅子だって。
(…だけど、思い出の部屋だから…)
見られるだけでも嬉しいよね、と思った所でハタと気付いた。
その子供部屋は、今もあるのだろうかと。
両親の家には、今も「シロエの部屋」が残っているのかと。
(……パパとママは、若い方じゃなくって……)
養父母たちの中では、けして「若い」とは言えない年齢。
だから「次の子」を迎えているとは思えないけれど、万一ということもある。
そうなっていたら、「シロエの部屋」は…。
(…新しい息子か、娘が住んでて…)
「シロエ」が其処にいた形跡は、何も残っていないのだろう。
自分が「両親の、前の子供」を知らないように。
そういった子供が「いたのかどうか」も、まるで考えなかったように。
(……パパ、ママ……)
ぼくを忘れていないよね、と俄かに心が凍り付く。
大人の世界にも「記憶の処理」があるなら、両親は「シロエ」を忘れたろうか、と。
次の子供に、惜しみなく愛を注げるように。
「この子を大事に育てないと」と、新しい息子か娘を迎えて。
(……そんなの、嫌だ……)
忘れないで、と零れ落ちる涙。
いつか故郷に帰った時には、両親に会いにゆくのだから。
両親が「シロエ」を忘れていたなら、今の努力は、何もかも無駄になるのだから…。
忘れないで・了
※シロエが忘れられない、両親のこと。けれど両親が「覚えている」とは限らないのです。
次の子供を迎えるのならば、記憶の処理も有り得る世界。実際には無かったんですけどね。