「マツカ。…コーヒーを頼む」
そう言ってからハッと気付いたキース。「もういないのだ」と。
いったい何度目になるのだろうか、こうして呼んでしまうのは。
可哀相なくらいに優しかったマツカ、彼の名前を。…もういない部下を。
(あいつは優しすぎたのだ…)
どうして私などを庇った、と握った拳。机の下で。
コーヒーのことは、今はもういい。
他の部下を呼んで命じたならば、直ぐに届くと分かっていても。
今は誰とも会いたくはないし、そういう気分。
「マツカはいない」と気付く前なら、普段通りに執務の時間だったのに。
(……マツカ……)
あれほど邪険に扱ったのに。
彼が最後のミュウになったら、「殺すだろうな」とも脅したのに。
それでもマツカは逃げもしないで、ただ忠実に仕え続けた。
彼の仲間を、ミュウを宇宙から殲滅するべく、策を練り続ける上官に。
血も涙も無いと評判の主に、誰もが恐れる「キース・アニアン」に。
(逃げようと思えば、幾らでも…)
逃げ出すためのチャンスはあった。
彼一人、仮に逃げた所で、戦況が変わるわけでもない。
マツカに心は読ませていないし、得られる筈もない国家機密や軍の情報。
(もしも、マツカが逃げていたなら…)
知らぬふりをしておいただろう。
「私が命じた」と、許可なく発進した船を、誰にも追わせないように。
マツカは極秘の任務を果たしに、単身、ミュウの拠点に向かって行ったのだ、と。
それでマツカが戻らなくても、誰も不審に思いはしない。
てっきり殉職したと考え、グランド・マザーも、また疑わない。
そしてマツカは特進したろう、任務の途中で命を落としたのだから。
実際、今ではそうなったマツカ。
身を呈して国家主席を救った側近、そういう栄えある地位に置かれて。
セルジュやパスカルたちに惜しまれ、「どうして逝った」と悲しまれて。
(…何故、その道を選んだのだ…)
答えは分かっているのだけれども、「何故」と問わずにはいられない。
自分はマツカに、「何もしてやらなかった」から。
ただの一度も、素直な言葉を掛けてやりさえしなかったから。
マツカの瞳の奥にいつもあったもの、頑なに「キース」を信じる心。
どんなに冷たくあしらおうとも、厳しい言葉をぶつけようとも。
いつだったか、口にしたマツカ。
「本当のあなたは、そんな人じゃない」と、彼の心を占める思いを。
珍しく、感情の昂るままに。
それさえも切って捨てたのが自分、マツカは真実を言い当てたのに。
誰にも読ませぬ心の内側、それを見抜いていたというのに。
(…あの時くらいは…)
表情を動かすべきだったろうか、マツカに報いてやりたかったら。
心の奥では「早く逃げろ」と、ミュウの母船へ行くよう促していたのなら。
いずれ敗れるだろう人類、道を共にすることなどは無い。
ミュウの母船に辿り着いたなら、彼らはマツカを船に迎えるだろうから。
(もっとも、私が言った所で…)
マツカは、けして逃げたりはしない。
きっと逆らい、声を荒げてでも国家騎士団に残っただろう。
「これが任務だ」と命じたとしても。
ミュウの母船に行くことが任務、「キース・アニアンからの最後の命令だ」と言い放っても。
逃げ出すチャンスも、逃げる手段も、どれも使わずにマツカは残った。
そればかりか、船に入り込んだミュウと…。
(戦った挙句に、殺されたのだ…)
セルジュたちは、「部屋を破壊したのはミュウだ」と信じているけれど。
そうとしか思えぬ有様だったけれど、自分には分かる。
「マツカもあそこで戦ったのだ」と、「何もしないでいたわけがない」と。
侵入者と戦い、サイオンを使い過ぎていたから、マツカは助からなかったろうか…?
かつてミュウの母船から逃れた自分を、マツカはサイオン・シールドで…。
(やったことがない、と言いながらも…)
包んで見事に救ったのだし、きっと能力は高かった筈。
咄嗟にシールドを張れていたなら、マツカはその身を守れただろう。
床に倒れて心肺停止の「キース・アニアン」をも、シールドの中に取り込んで。
どちらも掠り傷さえ負わずに、侵入したミュウが他の兵士たちに見咎められて逃れるまで。
(そうしていたなら、きっとマツカは…)
今もこの船で生きていたろう、コーヒーを淹れてくれたのだろう。
「コーヒーを頼む」と言ったなら、直ぐに。
あの穏やかな笑みを浮かべて、「熱いですから、気を付けて下さい」と。
けれど、そのマツカはもういない。
自分を庇って逝ってしまった、それは無残な死に様で。
幾多の戦場を渡り歩いた自分ですらも、目を覆いたくなるような屍を晒して。
(…そうなって、なお…)
マツカが「キース」を救ったことを知っている。
死の淵の底へ沈んでゆくのを、マツカの手がグイと引き上げた。
恐らく、あれは夢ではない。
「キース、掴まえましたよ」と腕を掴まれたのは。
「ぼくがあなたを死なせない」と、笑みを湛えていたマツカは。
直後に自分が生き返った時、マツカは涙を流したから。
「悲しんでくれた」と、思念(こえ)が聞こえた気がしたから。
(…どうして、あの時…)
素直になれなかったのか。
開いたままだったマツカの瞳、それをこの手で閉じてやったけれど。
悲しみに顔を伏せたけれども、その後、自分が言った言葉は…。
(後始末をしておけ、と…)
ただ、それだけ。
「弔う」のではなくて「後始末」。
マツカはその身を、命を捨てて、自分を救ってくれたのに。
もっと早くに国家騎士団から逃げ出していれば、あそこで死にはしなかったのに。
(…何故、私は…)
「冷徹な自分」を貫いたのか、あの時でさえも。
ただの一兵卒ならともかく、ジルベスター以来の側近のマツカ。
彼の死を悼み、「丁重に弔ってやるように」と命じた所で、誰も異議など唱えはしない。
むしろ上がっただろう、「キース」への評価。
「冷徹無比な破壊兵器でも、忠実な部下には厚く報いてやるらしい」と。
今だからこそ、必要なものが求心力。
他の部下たちからの忠誠、「この人にならばついてゆける」と思われること。
「後始末を」などと言わなかったら、その方面での自分の評価は…。
(…間違いなく上がった筈なのだがな…)
今の自分がそう考えるなら、平静であれば、きっと「そのように振舞った」だろう。
マツカを失ってしまった悲しみ、それが心を覆わなければ。
普段と同じに「冷静なキース」、そんな自分であったなら。
(私らしくもなかったのだな…)
如何にも「キースらしく」見えたろう、あの自分は。
長く仕えた側近の死さえ、「後始末を」と言い捨てて去った自分は。
真に計算高かったならば、逆のことを口にした筈だから。
マツカを丁重に弔うようにと、「後始末」などとは言いもしないで。
動揺のあまり、選び損ねた言葉。
傍目には「キースらしく」見えても、そうではなかった冷たい命令。
(…そのせいで、今も…)
実感できない、「マツカがいなくなった」こと。
忠実なセルジュやパスカルたちは、命令のままに動いたから。
「後始末をと仰ったから」と、彼らが内輪で見送ったマツカ。
破壊された部屋は他の者に任せて、マツカの亡骸を運んで行って。
(二階級特進の証なども…)
添えてマツカを送ったのだろう、二度と戻らぬ死への旅路に。
きっと何処かに墓標も作って、「ジョナ・マツカ」の名を刻んでやって。
(……私は、その場所さえ知らぬ……)
「後始末」のことなど、報告されはしないから。
あの部屋がまだ血まみれの内に、「マツカの死体は片付けました」と来たセルジュ。
「これから部屋の修理であります」と、「当分は区画を閉鎖します」と。
(…何故、あの時に…)
ただ頷いただけだったのか、愚かな自分は。
「待て」と一声掛けさえしたなら、出られただろうマツカの葬儀。
そして上がった「キース」の評価。
「やはり閣下は素晴らしい人だ」と、「忠実な部下には報いて下さる」と。
それが「勘違い」であろうとも。
本当の所は「マツカだからこそ」、弔わねばと考えたのが「キース」でも。
(……行こうと思えば、行けたのだがな……)
私は二度も間違えたのか、と今も悔やまれる自分の選択。
「後始末を」と言い捨てたことと、マツカの葬儀の日時を尋ねなかったこと。
間違えたせいで、今になっても…。
(いないことさえ、私には…)
認識できないままなのだ、と悔やんでも悔やみ切れない思い。
マツカがどれほど大切だったか、こうして思い知らされる度に。
「コーヒーを頼む」と口にする度、それに答えが返らないままになる度に。
どうして自分はこうなのだろうか、いつも間違えてしまうのだろうか。
(…シロエの時にも…)
彼を見逃し損ねたのだ、と思いは過去へと戻ってゆく。
「いつも、私は間違える」と。
他に取るべき道を探らず、いつも間違え続けるのだ、と…。
もういない者へ・了
※マツカがいなくなった後にも、「コーヒーを頼む」と言っていたキース。ごく自然に。
なのに「後始末」という酷い言いよう、無理しすぎだよ、と。弱みを見せられないタイプ。