(……シロエ……)
暗澹たる思いでキースが戻ったステーション。
シロエの船を撃墜した後、E-1077に降り立ったけれど。
Mの精神攻撃の余波がまだ残る其処に、シロエを知る者はもういない。
少なくとも、候補生の中には。
セキ・レイ・シロエという名は消されたから。
最初は「居る」ことを消されてしまって、今はもう、その存在ごと。
宇宙の何処にも、いなくなったシロエ。
自分がこの手で撃ち落としたから、彼が乗った船を。
武装してさえいなかった船を、ただ逃げてゆくだけの練習艇を。
マザー・イライザの命令のままに、レーザー砲でロックオンして…。
(……撃ったんだ……)
そしてシロエは消えてしまった。
髪の一筋さえ残すことなく、光に溶けて。
レーザー砲の閃光の中で、一瞬の内に蒸発して。
何も残っていなかったことを、この目で確認して来たから。
シロエの船が在った場所には、残骸が散らばるだけだったから。
自分はこうして戻ったけれども、シロエは二度と戻りはしない。
皮肉に満ちた彼の言葉も、この耳にけして届きはしない。
(…ピーターパンの本を抱えた時の…)
あどけない子供のようだった顔も、もう見ることは叶わない。
魂ごと宇宙(そら)へと飛び立った者は、別の世界の住人だから。
いつか自分が其処へ逝くまで、行き方さえも分からないから。
(……シロエは自由に……)
なれたのだろうか、彼の望み通りに?
機械の言いなりになって生きる人生、意味などは無いとシロエは言った。
それならば彼は、自分の望みを叶えたろうか。
生きる意味の無い生を終わらせ、果ても見えぬ空へ飛び去ったから。
漆黒の宇宙の向こうにはきっと、まだ見ぬ空があるのだろう。
テラフォーミングされた星の空やら、母なる地球を取り巻く空や。
昼には光で青く染まって、夜は宇宙の色になる空。
そういった空より、もっと自由で果ての無い空。
シロエは其処へと行ったのだろう、生ある者には持ち得ない翼、それを広げて。
きっと誰よりも自由に羽ばたき、何処までも飛んでゆける世界へ。
…そんな気がする、彼は勝ったと。
真の自由を勝ち取ったのだと、誰も彼を追えはしないのだと。
そう思うけれど、シロエの勝ちだと感じるけれど。
これは自分の逃げなのだろうか、シロエを殺してしまったから。
連れ帰る代わりに船ごと撃って、この世から消してしまったから。
(…シロエが自由になれたのなら…)
それがシロエの意志だったならば、悔やむことなど何一つ無い。
シロエは自分を利用しただけ、撃たせて空へと飛び去っただけ。
そう思ったなら、楽になれるから。
レーザー砲を撃った罪の手、その手を真っ赤に染めた血潮も流れ去るから。
だからそちらへ向かうのだろうか、自分の思いは?
あれはシロエが選んだ道だと、自分はそれを助けたのだと。
何も罪など犯していないと、悔やまなくてもいいのだと。
(……卑怯者め……)
認めたくないのか、己の罪を。
罪だと心に刻み付けつつ、まだ逃げようと足掻くのか。
自分は何もやっていないと、ただ従っただけに過ぎないと。
シロエの意志に、マザー・イライザの命令に。
全てはそうしたことの結果で、シロエも、マザー・イライザも勝った。
シロエはマザー・イライザに。
自らを捨てて、自由な道へ。
マザー・イライザも勝ちを収めた、シロエという反逆者を消して。
…自分は彼らに使われただけで、いいように使い捨てられただけ。
一人きりで消えない罪を抱えて、この左手を血染めにされて。
その通りだと認められたら、思い込むことが出来たなら。
どれほど楽になれるのだろうか、せめてシロエのせいに出来たら。
彼を自由に飛ばせてやったと、鳥籠から出してやったのだと。
(鳥籠から出してやった途端に…)
鋭い爪に捕えられても、鷹にその身を引き裂かれても。
それでも鳥は本望だろうか、自由に焦がれた籠の中の鳥は。
一瞬だけ自由に羽ばたいた空を、永遠に駆けてゆくのだろうか。
引き千切られた羽根が血まみれになって、空の鳥籠の側に散らばり、鳥は消えても。
籠の中で空を夢見て歌った、その声が絶えてしまっても。
(……シロエ、お前は……)
本当にそれで良かったのか、と尋ねても返らない答え。
きっと永遠に分からないから、たとえシロエの勝ちだとしても…。
(…ぼくがシロエを殺したことは…)
存在さえも消し去り、葬ったことは、もう間違いなく罪なのだろう。
シロエの口から「違いますよ」と聞けないのなら。
彼が自分で此処に出て来て、心を解いてくれないのなら。
(……誰もシロエを知らなくても……)
このステーションに存在したこと、それさえ忘れてしまっていても。
自分がシロエを忘れないこと、きっとそれだけが出来る贖罪。
なんとも皮肉な話だけれども、自分だけが彼を覚えているから。
セキ・レイ・シロエを殺した自分が、彼の存在を消してしまった人間が。
(…一生、シロエを忘れないこと…)
たとえシロエが自分を利用したのだとしても。
果ての無い空へと飛んでゆくために、この肩を蹴って去ったとしても。
飛び去ったシロエを忘れないこと、自分の罪を背負ってゆくこと。
友に成り得た可能性さえ、シロエは秘めていたのだから。
一つピースが違っていたなら、きっと良き友だったのだろう。
サムやスウェナと一緒に笑って、四人でテーブルを囲みもして。
スウェナが去って行った後には、三人で。
卒業の時も、此処を出てゆく船の中から、窓に向かって手を振ったろう。
シロエの姿は遠すぎてどれか分からなくても、其処にいるだろう窓に向かって。
「先に行くから、また会おう」と。
いつか地球でと、その日を待っているからと。
本当にきっと、ほんの僅かなすれ違い。
それがシロエと自分とを分けて、隔ててしまって、置いてゆかれた。
シロエは自由な空へ飛び去り、自分に残されたものは罪の手。
友だったかもしれないシロエを、彼を乗せた船をこの手で撃った。
永遠に消えはしない烙印、左手に刻まれた罪の刻印。
誰の目にも、それは見えなくても。
セキ・レイ・シロエを知っている者、それさえ誰もいなくなっても。
(……忘れない……)
彼を生涯、忘れはしない、と誓った左手。
見る度にそれを思い出そうと、この手の罪をと睨んだ左手。
レーザー砲の照準を合わせ、発射ボタンを押したことを自分は知っているから。
他に知る者が誰もいなくても、自分の心は誤魔化せないから。
(…シロエが自由になったのだとしても…)
そう思うことを、けして自分に許しはしない。
自分が正しいことをしたと思うなど、それは逃げでしかないのだから。
シロエの口から「今まで知らなかったんですか?」と聞かない限りは、逃げでしかない。
「気付かなかったなんて、機械の申し子も大したことはないんですね」と。
「キース先輩も、その程度でしたか」と、あの笑い声がしない限りは。
そういう声が聞こえたならば、と思う自分がいる内は。
消えない罪の意識と後悔、明かせる相手もいないのが自分。
誰もシロエを知らないのだから、語っても意味を成さないこと。
(…サムに言っても…)
返る言葉はもう分かっている、サムの姿を見なくても。
きっと、あの時より酷い。
幼馴染だと聞いたミュウの少年、ジョミー・マーキス・シンのこと。
あんなに動揺したというのに、サムは覚えていなかった。
かつて語った幼馴染を、鮮明だった筈の姿を。
あれよりもずっと、空しい結果が自分を待っているのだろう。
「シロエを殺してしまったんだ」と打ち明けたなら。
サムはキョトンと目を見開いてから、「それ、誰だよ?」と尋ねるのだろう。
そんな名前は知らないと。
「きっと夢だぜ」と、「そういや、前にも変だったよな?」と。
訓練飛行の日を間違えていなかったか、と。
しっかりしろよと、あの笑顔で。
(……どうせ、そうなる……)
そうなるのだと分かっているから、今はサムにも会いたくはない。
夕食の時間も皆とずらした方がいい。
シロエはいないと思い知るから、またしても罪を負わされるから。
本当だったら食堂に一人、生徒は多い筈なのだから。
シロエが今もいたならば。
皆が名前を、姿を覚えていた頃ならば。
後にしよう、と思った食事。
サムにも会うまいと考えかけた夕食の時間。
けれども、心を不意に掠めていった声。
(…シナモンミルク…)
何度も食堂で耳にしていた、シロエがそれを頼むのを。
彼の好物だったのだろうか、意識し始めたら不思議なほどに聞いていたから…。
(……逃げないのならば……)
シロエを殺した己の罪を、一生、背負ってゆくのなら。
誰も分かってくれない苦しみ、それを生涯、負ってゆくなら…。
(…あれを頼むか…)
きっとサムなら、「何だよ、それ?」と驚いてトレイを見るだろうけれど。
「お前、コーヒーじゃなかったのかよ?」と、「どうしたんだよ?」と訊くだろうけれど。
(…ちょっと興味があっただけだ、と言えたなら…)
自分の罪をきちんと罪だと受け止められるし、シロエのことも忘れないだろう。
これを好んだ人を殺したと、友だったかもしれない者を、と。
一度も飲んだことのない味、それと一緒に。
どういう味かは分からないけれど、食堂であれを頼んでみよう。
かつてシロエがそうしたように。
何度も耳にしていたように。
「シナモンミルク、マヌカ多めに」、それがシロエに捧げる挽歌。
自分はシロエを忘れないから。
これから食堂で初めて口にする味、それと一緒に心に刻む。
セキ・レイ・シロエ、自分が殺した少年の名を。
友に成り得た筈の少年、彼の姿を、死の瞬間まで自由に焦がれた鳥の名前を…。
飛び去った鳥に・了
※シロエの存在、誰もが忘れていましたからね…。キース以外は、もう全員が。
鳥籠から逃げた鳥の名前は「セキレイ」、そういうイメージ。日本語な上に野鳥ですけど。
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