(…このタイミングで処分命令か…)
E-1077をか、と立ち上がったキース。
たった今、グランド・マザーから受けた極秘の命令。
「教育ステーション、E-1077を処分して来い」と。
とうの昔に、廃校になっているけれど。
スウェナもそれを知っていたけれど。
(…偶然なのか?)
この間、これを受け取ったばかり…、と本を手に取り、腰掛けた椅子。
さっき通信を受けたのとは別の、私的なスペース。
膝の上、傷んだピーターパンの本。シロエの持ち物だった本。
見返しの下にシロエが隠していたメッセージ。
それを自分は見たのだけれども…。
(…肝心の部分は見られず、か…)
劣化したのか、本と同じにレーザー砲を浴びて破損したのか。
シロエのサイオンは本を守ったけれども、あちこちが黒く焦げているから。
破れてしまった箇所も幾つか。
自分の命を守る代わりに、シロエが守った大切な本。
あのメッセージを守るためではなかっただろう。
ただひたすらに、本を守っただけだったろう。
遠い昔に、両腕で本を抱くのを見たから。
まるで幼い子供のような表情で。
あの時に知った、この本はシロエの宝物だと。
幼い時から持っていたもの、ステーションまで持って来た本。
だからこそ、シロエは本を守った。
ミュウの力で、本の周りにシールドを張って。
自分ごと守れば助かったものを、本のことだけを大切に考え続けて。
そうやって逝ってしまったシロエ。
彼が命を懸けて撮影した、フロア001の映像。
その核心は画像も音声も乱れてしまって、掴めないまま。
E-1077に出向けば、あのフロアへも行けるのだろう。
シロエが「忘れるな!」と叫んだ場所へ。
卒業の日までに、どう頑張っても辿り着けずに終わった場所へ。
(…やっとシロエとの約束を果たせる…)
十二年もの時が流れたけれども、遺言になったシロエの言葉に従える。
「自分の目で確かめろ」とシロエは言っていたから。
フロア001、其処にあるもの、それが何かは分からないけれど。
グランド・マザーからも聞いてはいないけれども。
(まるで神の手でも働いたような…)
そんな気がするタイミング。
シロエの本を手にした途端に、この命令が来たのだから。
E-1077のことなど、今日まで聞きはしなかったのに。
廃校になったということでさえも、軍の噂で耳にしていただけなのに。
(…呼んだのか?)
お前が私を呼んだのか、と心でシロエに語り掛けた。
来いと言うのかと、今、この時に、と。
ピーターパンの本を開いて、見詰めたシロエが残したサイン。
「セキ・レイ・シロエ」と書いてある名前、その下にチップが隠されていた。
けれど、シロエはチップを守ったわけではない。
違うと確信している自分。
シロエが守ったものは本だと、この本だった、と。
機械の言いなりになって生きる人生に、意味などは無いと言い切ったシロエ。
きっと命は要らなかったろう、彼が忌み嫌う機械に服従してまでは。
たとえシロエがミュウでなくとも、あの道を選んで散ったのだろう。
この本だけを持って、宇宙へと逃げて。
宝物の本を抱えて飛び去っただろう、宇宙の彼方に広がる空へ。
(…なのに、本だけが…)
こうして此処に残ってしまった。
シロエの宝物なのに。
本当だったら、シロエと共に在る筈なのに。
無意識の内にシロエが守って、宝物をシールドしていたから。
どういう結果になるのかも知らず、ミュウの力すらも知らないままで。
それに気付いて、思ったこと。
E-1077を処分するなら、そのために自分が出向くなら。
(…これをシロエに返してやろう)
もしもシロエが自分を呼んだと言うのなら。
来いと招いていると言うなら、彼が望んでいることは、きっと…。
(口では、フロア001だと言おうとも…)
本当の思いは、この本のこと。
宝物の本を返して欲しいと、それが出来るなら届けてくれと。
彼の魂が何処にいるかは分からないけれど、今もE-1077の辺りにいるのなら…。
(シロエに返してやらないとな…)
自分が持ったままでいるより、これの本当の持ち主に。
己の命を守る代わりに、本を守ったほどのシロエに。
きっと今でも、本を探しているだろうから。
ピーターパンの本は何処へ行ったかと、誰が奪って行ったのかと。
あの本が宝物だったのに、とシロエはきっと探している。
魂になって、今も宇宙にいるならば。
E-1077の辺りの漆黒の宇宙、其処を飛んでは、「ぼくの本は?」と。
自分ならこれを返してやれる、と思った本。
遠い日にシロエが逮捕された時、同じように本を返してやった。
意識を失くしたシロエを連れてゆこうとしていた、保安部隊の男たちの前に突き付けて。
シロエが横たえられていたベッド、その上にそっと置いてやって。
(あの時のように、返さないと…)
この本はシロエの宝物だから。
保安部隊に連れ去られた後も、皆の記憶から消された後にも、シロエは本と共にいた。
大切に抱えて、宇宙まで。
レーザー砲の光に焼かれた時にも、この本だけを守り抜いて。
だから返してやらねばならない、本の持ち主だったシロエに。
遠い日と同じに、自分の手で。
これがシロエの宝物だと知っているから、それを自分が手にしたからには。
ならば、自分が、今、すべきことは…。
グランド・マザーからの通信を受けた、さっきの部屋。
其処に戻ってアクセスしたデータ、今ならば開示される筈。
パルテノンの管轄下に置かれ、政府関係者ですら立ち入りを制限されている場所。
E-1077のデータに、恐らくはその殆どに。
(フロア001は無理なのだろうが…)
試してみて、やはり弾かれた。
国家機密を示すエラーに、そういうエラーメッセージに。
けれども、自分が探しているのは、それではない。
そう簡単に謎が解けるとも思ってはいない。
(…だが、シロエの名は…)
出るのだろう、と打ち込んでいったシロエの名前。
「セキ・レイ・シロエ」と、それから彼が在籍していた時期と。
案の定、其処にいたシロエ。
候補生たちが皆、忘れ果てていた、セキ・レイ・シロエの名前は在った。
E-1077を運営していた者たちからすれば、それは必須のデータだから。
シロエの存在を消し去った後も、データは保存されるから。
名前の下には、欲しかったデータ。
あそこでシロエが暮らしていた部屋、その所在地と状態と。
(…やはり封鎖か…)
E-1077が廃校になる前からずっと、閉ざされたままだという情報。
候補生は誰も立ち入らない部屋、使われることがなかった部屋。
シロエはMのキャリアだったから。
ミュウ因子を持った人間を指す、ミュウに詳しくない者たちが使う言い回し。
此処でもそれが使われていた。
ミュウとは何かを知らない者たち、E-1077の上層部。
彼らはMの感染を恐れ、シロエの部屋を封印した。
誰も近付かないように。
同じような扉が並んでいたって、誤って入らないように。
E-1077の居住区の一角、時が止まったままだろう部屋。
シロエの私物はもう無いけれども、彼が暮らしていた頃のままに。
新しい住人が入らないまま、シロエと一緒に凍った刻(とき)。
予想通りか、と頭に叩き込んだ地図。
シロエの部屋へ行くには何処を通るか、どの通路からが近いのか。
扉を開くためのパスワードは何か、どうすれば中に入れるのか。
(…フロア001よりは…)
きっと簡単に行けるだろうさ、と唇に浮かべた自嘲の笑み。
卒業の日までに何度試みても、其処へは行けなかったから。
シロエが自分に遺した遺言、それを果たせはしなかったから。
(あのステーションを処分するだけなら…)
必要のない人工重力、それに照明。
どちらも復活させねばなるまい、シロエに本を返すなら。
かつてシロエが向かっていただろう机、その上に本を置いてやるなら。
頼りなく宙に浮いたままだと、返したことにならないから。
シロエの机の上に置いてこそ、「返したぞ」と言ってやれるのだから。
(…ステーションの処分と、フロア001だけならな…)
重力も照明も必要無いが、と鼻先で笑う。
マザー・イライザが何を言おうが、任務を遂行するだけだから。
フロア001の内部を確かめ、後はステーションの中枢を破壊してやるだけ。
それで終わりで、無重力だろうが、暗がりだろうが、自分にとっては容易いこと。
(しかし、シロエに本を返すなら…)
やはり机に置いてやらねば、シロエがそれを受け取れるように。
あの日と同じに、本を抱き締めて持ってゆけるように。
「お前の本だ」と見せてやるには、照明も要る。
非常灯だけでも点けてやらねば、シロエの部屋にも本が見える灯りが灯るよう。
(……本を隠して持って行くには……)
宇宙服の中がいいだろう、とも考える。
マツカしか連れてゆかないけれども、本の存在は隠しておきたいから。
これはシロエの大切な本で、直接、返しに出掛ける本。
任務とはまるで無関係だから、自分の心の声に従うだけなのだから…。
返したい本・了
※E-1077を処分しに行った時のキース、あの本を持っているんですよね…。
シロエに返しに行ったんだろう、という捏造。シロエの部屋だという証拠、掴めず。