(ぼくの本…)
これだけしか残っていないけれど、とシロエが抱き締める大切な本。
E-1077の中の個室で、一人きりの夜に。
たった一冊、故郷から持って来られた宝物。
両親に貰った、ピーターパンの本。
成人検査を受けた後にも、この本だけは残ってくれた。
子供時代の記憶を奪われ、両親の顔すら、おぼろにぼやけてしまっても。
懐かしい故郷のエネルゲイアの、風も光も、空気も霞んでしまっても。
(この本だけは、此処にあるから…)
きっといつかは帰ってみせる、と誓う故郷の両親の家。
今は住所さえ忘れてしまって、もう書くことも出来ないけれど。
エネルゲイアの映像も、地図も、少しもピンと来ないのだけれど。
(…いつか必ず、思い出してやる…)
機械が記憶を奪ったのなら、その機械から取り戻して。
「ぼくの記憶を返せ」と、機械に命令して。
(…パパとママの家に帰れる日まで…)
この本は、けして手放さない。
何があっても守り続けて、何処へ行こうと、この本と一緒。
メンバーズとして船に乗り込む時が来たって、戦地へ赴く日が来たって。
(何処へでも、持って行くんだから…)
絶対に離してたまるもんか、と本を膝の上に置いて広げる。
其処に書いてある、自分の名前。
「セキ・レイ・シロエ」と、自分の字で。
これが「自分の持ち物」の証。
この本は誰にも渡しはしないし、いつまでも「セキ・レイ・シロエ」の本。
誰にも書き換えさせない、その名。
本の持ち主は自分一人だけで、何処までゆこうと「セキ・レイ・シロエ」。
いつか命尽きる時が来たなら、その時は「失くす」かもしれないけれど。
ぼくの本だ、と見詰める「セキ・レイ・シロエ」の文字。
命ある限り、この本は自分だけのもの。
こうして名前も書いてあるから、誰も「寄越せ」と奪えはしない。
それをしたなら、責められるだけ。
此処でなら、マザー・イライザに。
E-1077を離れた後なら、グランド・マザーや、マザー・システムに。
(人の物を盗ったら泥棒だしね?)
そういう時にはマザー・システムも役に立つよ、とクックッと笑う。
「泥棒」は明らかに「規則違反」で、罰せられるもの。
だから、この本を奪う者はいない。
奪った途端に「泥棒」になって、評価が下がるだけなのだから。
(…渡すもんか…)
この本は「ぼくの本」なんだから、と指で持ち主の名前をなぞる。
「セキ・レイ・シロエ」と、一文字、一文字、自分の筆跡を追うように。
それを辿って、指で書こうとするかのように。
(…セキ・レイ……)
シロエ、と続けようとして、ふと止まった指。
「シロエ」は自分の名前だけれども、今、書いた「レイ」。
これも同じに「シロエ」の名前。
「セキ」の後には「レイ」と続いて、最後に「シロエ」。
(……セキ・レイ・シロエ……)
何度も自分でそう名乗った。
そして誇らしげに、こう続けもした。
「シロエと呼んで下さい」などと。
お蔭で誰もが「シロエ」と呼ぶ。
教官たちなら、「セキ・レイ・シロエ」と名簿を読みもするのだけれど。
(…ぼくはシロエで…)
セキ・レイ・シロエ、と心の中で繰り返す。
本に書いた文字を目で追ってみても、やはり「セキ・レイ・シロエ」とある。
けれども、止まってしまった指。
「セキ・レイ」までをなぞって、其処の所で。
続けて「シロエ」と辿る代わりに、まるで縫い留められたかのように。
(……ぼくの名前は……)
「セキ」なら両親の名前と同じ。
父は「ミスター・セキ」でもあったし、「セキ」がファミリーネームになる。
養父母とはいえ、子供時代の自分は「セキ」という家の子。
今でも「セキ・レイ・シロエ」を名乗って、「セキ」の名を継いでいるけれど…。
(…シロエは、シロエで…)
ファーストネームで、何も思わず口にしていた。
名を問われたなら「セキ・レイ・シロエ」と、「シロエと呼んで下さい」と。
だから自分でも「シロエ」のつもり。
自分の名前は「シロエ」なのだと、ずっと信じていたのだけれど。
(……セキ・レイ……)
「レイ」も「ぼく」だ、と今頃になって気が付いた。
それはいわゆるミドルネームで、「セキ・レイ・シロエ」の名前の一部。
「セキ・シロエ」ではなくて、「セキ・レイ・シロエ」。
自分の名前はそれで全部で、「レイ」が無ければ、まるで別人。
「セキ・シロエ」なんかは知らないから。
自分はあくまで「セキ・レイ・シロエ」で、「他の名前」ではないのだから。
どうして今日まで、不思議に思わなかったのだろう。
「レイ」も自分の名前なのだと、考えさえもしなかったろう…?
(…それも忘れた…?)
まさか、と背中がゾクリと冷える。
あの忌まわしい成人検査で、「忘れなさい」と命じた機械。
記憶の全てを捨てるようにと強いた、憎らしいテラズ・ナンバー・ファイブ。
あれが自分から「奪った」だろうか、「レイ」の名前を…?
どうして「セキ・レイ・シロエ」なのかを、「レイ」の名は何処から来たのかを。
それならば、分からないでもない。
むしろピタリと合う符号。
機械が「忘れさせた」なら。…記憶を「奪い去った」のならば。
(…パパの名前にも、ママの名前にも……)
「レイ」という名は入ってはいない。
そのことは今もハッキリしている。
顔さえおぼろになった今でも、「セキ・レイ・シロエ」のパーソナルデータは健在。
E-1077のデータベースにアクセスしたなら、即座に弾き出されるそれ。
其処には、養父母の名前も書かれているのだから。
(…パパもママも、「レイ」じゃないのなら…)
きっと「レイ」には意味がある筈。
ミドルネームを持っている者は、そう沢山はいない時代。
(パパか、それともママだったのか…)
あるいは二人で、そう決めたのか。
とにかく「子供にミドルネームをつけよう」と、父と母とは考えた。
そうして生まれた「セキ・レイ・シロエ」という名前。
「セキ・シロエ」にはならないで。
「レイ」を加えて、「セキ・レイ・シロエ」と。
(…「レイ」の名前に、意味があったんだ…)
きっとそうだ、と今なら分かる。
自分は「何も覚えていなくて」、両親の名前に「レイ」の名は無い。
父か母かが選んだ名前で、何らかの意味がこもっていた筈。
「セキ・シロエ」よりも響きがいいから、と「レイ」を加えてくれたのか。
それとも「レイ」という名の知り合いでもいて、その人の名に因んだものか。
(…知り合いじゃなくて、パパの尊敬する人だとか…?)
遠く遥かな昔の学者か、あるいは偉人や、英雄などや。
そうした名前を貰っただろうか、「セキ」の名を持つ息子のために…?
(ママが選んだ名前ってことも…)
有り得るのだから、「レイ」というのは、母が好んだ画家や作家の名前とか。
母の友人に「レイ」の名を持つ、親しい誰かがいただとか。
(……パパかママかは、分からないけど……)
二人で決めたかもしれないけれども、「レイ」は「選んで貰った」名前。
「この名がいい」と、わざわざミドルネームにして。
本当だったら「セキ・シロエ」だけで充分なのに、「レイ」を加えて。
(…だから、忘れた……)
ぼくは覚えていないんだ、と「レイ」の名前の部分をなぞる。
この名に何の意味があったかと、それを名付けたのは父か母か、と。
(…何回も聞いて、「また聞かせて」って…)
幼い自分は両親にせがんだのだろうか。
「どうして、ぼくはシロエの他にも名前があるの?」と、「レイって誰?」と。
その度に答えを聞かされたろうか、「それはね…」と母に、懐かしい父に。
何度も何度も繰り返し聞いて、きっと心に刻んだ名前。
「ぼくの名前はセキ・レイ・シロエ」と、「レイの名前は、パパたちが…」と大切に。
宝物のように思っただろうに、「それ」を忘れた。
「レイ」の名前は何処から来たのか、誰が名付けてくれたのかを。
酷い、と涙が零れ落ちる。
「名前を忘れてしまうだなんて」と、「パパたちがくれた名前なのに」と。
名前は残っているのだけれども、意味を忘れたら、記号にすぎない。
「セキ・レイ・シロエ」と名乗ってみたって、「レイ」の名前は謎のまま。
「セキ」ならば、ファミリーネームなのに。
「シロエ」の方ならファーストネームで、誰にでもあるものなのに。
(……ミドルネームは、持っている人が少なくて……)
大抵は、それに意味があるもの。
母の姓だったり、両親の名前の一部をそのまま使っていたりと。
(…だけど、ぼくのは……)
両親の名前と繋がらないから、ただ、悲しい。
それを贈ってくれた両親、その「思い」ごと忘れたから。
「レイ」の名に何の意味があったか、どうしても思い出せないから。
(……セキ・レイ・シロエ……)
レイって誰なの、と顔もおぼろな両親に問う。
「どうして、ぼくの名前はレイなの」と。
涙が頬を伝うけれども、それに答えは返らない。
「セキ・レイ・シロエ」の「レイ」が何かは、何処から名付けられたのかは…。
奪われた名前・了
※セキ・レイ・シロエの名前って、ある意味、色々、反則。「セキ」が姓だったり、と。
ミドルネームも、ジョミーしか持っていないんですよねえ…。なので捏造。