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女神を見付けた。
一粒の真珠、地球を抱く女神。
未だに座標すらも掴めぬ母なる惑星(ほし)。
その星の鮮やかな真の姿を、ガラスケースの中に漂う幼い少女が夢に見ている。
君こそが長い年月追い求めて来た、ぼくの夢の化身。
………君はぼくの女神………。
ブルーが其処を訪れたことに意味は無かった。
人類が作り上げた管理システムの要、ユニバーサル・コントロール。
ミュウを探し出し、秘密裏に処分することを任務の一つとする憎むべき施設。
根底から破壊してしまえれば、と何度思ったことだろう。
しかし施設を壊したところで何になる?
再び一から作り直され、ミュウへの憎しみが今よりも更に増すだけだ。
消し去りたくとも消すことの出来ぬ、ミュウを狩る者たちの堅固な城塞。
せめてもの意趣返しにと、ブルーは時折、その中へ密かに入り込む。
幾重にも張り巡らされた防御システムと警備センサー。それらを潜り抜けて自由自在に、また気まぐれに闊歩するなど、勤務している職員ですらも許されはしない。
そんな場所をミュウが、それもミュウの長が歩き回っていると知ったら、このユニバーサルを統べる者たちはどんな表情を見せるのだろう。
あからさまな嫌悪か、それとも侮蔑と激しい憎悪なのか。
悲しくも愚かしい、自分たちに向けられる人類の思い。分かり合える日がいつか来るのか、永遠に来はしないのか…。
暗澹たる思考に囚われながら、ブルーは今日も城塞の奥深い通路を巡る。目指す場所も探す物も無いまま、厳重なセキュリティー・システムを潜り抜けては右へ、左へと…。
そうして辿り着いた扉の奥。
薄暗く広い部屋の中央に、ぼうっと青く発光している大きなガラスケースが在った。
その中に……。
(……人……?)
初めは標本なのかと思った。保存用の液体に漬けられ、研究対象として切り刻まれる運命にあるミュウの亡骸。
惨いことを、とブルーの心に悲しみと怒りが湧き上がる。
死んでなお安らぎを許されぬ仲間をせめて地上から解き放たねば、と足早にガラスケースの方へと向かった。抜け殻となった肉体を跡形もなく消し、ケースを満たす液体をも…、と近付いた足だったけれど、それが床へと縫い止められる。
(……生きている……?)
ミュウだからこそ感じ取ることが出来る微かな鼓動と柔らかな波動。
(…これは……)
人工のものでしか有り得ない臍帯に繋がれた幼い少女。
長い金の髪を揺らす美しい少女はミュウではなくて、また人類でもないものだった。
人類が……、否、人類を管理するシステムそのものが無から創り出した生命体。それを示すデータが部屋のそこかしこに散らばり、ブルーに無言の警告を発するけれども。
(……綺麗だ……)
一糸纏わぬ少女の姿に魅入られたように、ブルーはケースへと歩み寄っていった。
膝を抱き、人工羊水の中に浮かぶ金の髪の少女。
眠る彼女には臍帯を通して膨大な情報が流し込まれ続け、人類よりも遙かに高い知能を有する指導者として覚醒させるべくプロジェクトが淡々と進行している。
それは少女が完成した暁に、ミュウの破滅を約束しかねない恐るべき計画であるというのに。
何故かこの少女に心惹かれる。
まだ指導者としての自我に目覚めてはおらず、ただ幸せな夢を見ているだけの幼い少女に。
(…君は……)
呼び掛けようにも、少女は名前を持たなかった。無事にガラスケースから出される日までは数字と記号の組み合わせで呼ばれる実験体に過ぎない少女。
それなのにどうして、君は微かな笑みさえ浮かべて水槽の中で微睡めるのか…。
(…君は……何を夢見ている…?)
ミュウが殲滅され、人類しか存在しない理想郷なのか、と覗いた夢に在ったもの。
それは青く輝く一粒の真珠。
遠い昔から焦がれ続けた母なる地球。
その瞬間に、ブルーは少女に惹かれた理由を悟った。
地球を抱く女神。
君こそが、ぼくの夢の化身だ……。
震える手をガラスケースへと伸ばすブルーに呼応するように、少女の身体がユラリと揺れた。
伝説の人魚さながらに泳ぎ寄り、無垢な微笑みがブルーただ一人のために向けられる。
「……ぼくの女神……」
唇から漏れた言葉は少女の耳に届いただろうか?
ガラスに触れたブルーの手のひらに、少女の白く小さな左手が内側からそっと重ねられた。
途端に流れ込む、先ほどよりもずっと鮮やかな地球の映像。
(………欲しい)
この地球が、地球を抱く少女が。
少女の瞳は開くことはなく、ブルーのサイオンも、この部屋に溢れる数多のデータも、彼女が生まれつき盲目であると告げていた。
指導者となるには不向きな身体。それでも彼女を育成し続ける理由は次の個体を創り出すため。生殖能力さえも欠いた少女は、肉体的な欠損を除けば最高の出来であったのだ。
彼女を育て上げ、遺伝子データから欠陥を取り除き、今度こそ人類に相応しい指導者を創り出す。そのためだけに人工羊水の中で育まれる少女に確たる未来は無いだろう。
目的が果たされた時には処分されるか、一介の市民としての記憶を植えられ、捨てられるか。
それならば……。
(ぼくが貰って何がいけない?)
ブルーは再び微睡み始めた少女を熱い瞳で見詰めた。
青い地球を抱いた夢の化身。
ミュウの長として独りミュウたちを守り導き、戦い続けることだけがブルーの全てで、他には何ひとつ持ってはいないし、与えられることもありはしなかった。
ソルジャーの称号も、居室の青の間も、ミュウたちの尊敬と羨望を集めはしても、ブルーにとっては重くのしかかる枷でしかない。
戦闘能力を持ったミュウ、タイプ・ブルーはブルーしか存在しないがゆえにソルジャーであり、青の間ですらブルーの防御能力を最大限に発揮するためのシャングリラの砦。
一人で安らげる部屋さえも無く、導いてくれる者もいない孤独な生。
だからこそ夢の標にと地球を求めた。青い水の星に還り着く日だけを夢見て、今日まで戦い続けて来た。
その夢の星を抱く少女が目の前にいる。無から創り出され、不要となったら捨てられるだけの寄る辺なき身の、美しく無垢な夢の化身が…。
(…決めたよ、ぼくの大切な女神。……ぼくは君を必ず手に入れる)
いつか必ず迎えに来る、とガラスに口付けを一つ落としてブルーの姿はユニバーサルの研究室からかき消えた。
ブルーが存在していた記録は何処にも残らず、少女は地球の夢を見る。そしてブルーもまた、自らが女神と呼んだ少女をシャングリラへと迎え入れる日を夢に見る……。
その日からブルーは仲間には言えない秘密を抱えた。
シャングリラを抜け出し、ユニバーサルへと忍び込むこと自体は問題では無い。それは以前から何度も繰り返していたし、長老たちも承知している。
けれど、人類に………それも指導者とすべく無から創られた少女に心奪われ、彼女の許を訪れるために抜け出していると知られるわけにはいかなかった。人類を憎む長老たちならユニバーサルを攻撃しかねない。ブルーを誑かした少女を消し去り、ソルジャーの正気を取り戻すために。
………それよりも更に厄介なのが、少女を迎えた後のこと。
少女はミュウの因子を持たない。それは人類であるという動かぬ証拠。如何に地球の映像を抱く少女といえども、シャングリラに人類を乗せられはしない。
「……だけどね、君は安心していて…」
ぼくの力があれば大丈夫だよ、とブルーは少女を外界から隔絶するガラスケースに手を添える。
「君が人類だと悟られないよう、ぼくが必ず守るから。…君はぼくだけの女神だから…」
ぼくが見付けた、とガラス越しに語りかけるブルーに少女が微笑む。
「…ありがとう、ぼくを信じてくれて。……ぼくのフィシス…」
重ね合わせた手から感じる少女の信頼。
まだ漠然とした赤子のような感情だけれど、少女はブルーを慕い、懐いた。
そんな優しくも穏やかな日々に、数字と記号だけが組み合わされた少女の名前はそぐわない。
だからブルーは密かに彼女に名前を付けた。
ミュウと判断されてからの過酷な人体実験の中で失くしてしまった、普通の人として生きていた頃の自分の記憶。その中に在った筈の母の名なのか、幼馴染か、あるいは大切な何かに付けた名前か。
それが何かは分からないけれど、少女に名前をと思った時に記憶の底から浮かび上がった名を迷うことなく彼女に与えた。
「ぼくの女神」、「ぼくのフィシス」と恭しくガラスケースに口付けながら。
もちろん、その名をユニバーサルの研究者たちに刷り込むことも忘れてはいない。少女はガラスケースから出されると同時に、フィシスと名付けられるだろう。ミュウの長が与えた名前とも知らず、彼女に相応しい名だと信じて……。
「…また来たよ、フィシス」
この前よりも少し大きくなったかな、とブルーは今日もガラスケースの前に立つ。
初めて少女を見付けた日から既に三年は経っただろうか。この部屋に飛び交うデータからすれば、フィシスが外界へと出される日までは半年も無い。
外界で更に半年ほど育て、必要なデータを集め終わったら彼女は処分されてしまうか、あるいは一般市民となるか。
その前に彼女をシャングリラへ、と気は焦るけれど、ガラスケースの中から連れ去ることは彼女にはリスクが高すぎた。生命を維持する人工臍帯と彼女の身体を切り離す術が無かったのだ。
人工臍帯の構造と仕組みは分かっている。しかし彼女の肉体をある段階まで育て上げるために組まれたシステムは外からの介在を許さない。無理に外せば自然出産だった時代の言葉で言う死産、フィシスの命を奪う結果になるだろう。
「…君が此処から出されてしまったら、会いに来られなくなってしまうね…」
だけど必ず迎えに来るから、と告げるブルーがガラスに伸べた手にフィシスの白い手が重なる。その度にフィシスが見せてくれる地球がブルーを慰め、未来への希望を繋いでくれる。
「君が人類でもかまわない。…ぼくと一緒に来て欲しいんだ」
ぼくには君が必要だから、とブルーは真摯に語りかける。
「出来るならば君をミュウにしたかったけれど、そんな方法をぼくは知らない…」
そんな魔法があったなら、とブルーがガラスケースから離した手の上に浮かべて見せた青く輝くサイオンの玉をフィシスの見えない瞳が追った。
「…君には見せたことが無かったか…。これがぼくの力。ぼくのサイオン」
見えるかい、と人工羊水の中に小指の先ほどのサイオンの玉を泡に紛れて忍び込ませた。
それはフィシスに自分を知って貰いたいがゆえの、他愛無い戯れ。
……ほんの戯れだったのだ……。
ガラスケースの向こうに浮かんでは消える幾つもの泡。
青く光るブルーのサイオンの玉も、そのように消える筈だった。けれど……。
「………フィシス?」
フィシスはブルーが送って寄越した光の泡に顔を輝かせ、初めて玩具を貰った子供のように両手で大切に包み込んだ。それでも所詮、泡は泡。指の間から細かい粒となって立ち昇り、消えてゆく玉にフィシスが落胆の表情を見せる。
「…今の光が気に入ったのかい? そうか、君の側には何も置かれていないから…」
初めて外の世界の物に触れたんだね、とブルーが二つ目のサイオンの玉を送ると喜びの感情が伝わって来た。儚く消えてしまう泡でも、フィシスはそれが気に入ったようだ。三つ、四つ、と泡を送って、フィシスがそれを掴まえて。
ガラスケース越しに、どのくらいそうしていただろう?
気付けばシャングリラに戻らねばならない時間が近付いていて、ブルーは名残惜しげにガラスに触れた。
「…フィシス、ぼくはそろそろ帰らなければ…。遊びの続きは、また今度」
これでおしまい、と送り込んだサイオンの玉にフィシスは悲しそうな顔をするなり、それを愛らしい唇で捉えた。まるでキャンデーでもあるかのように口の中に含み、コクリと喉が上下する。
「……フィシス?!」
身体に害を及ぼす類の力を乗せてはいなかったけれど、サイオンの塊であったことに間違いはない。人工臍帯で維持されているフィシスの生命には毒となるのでは、とブルーの背筋が冷たくなったが、飲み込んだフィシスはそれは幸せそうに微笑んでみせた。
「……心臓が止まるかと思ったよ…。あまり驚かせないで、ぼくの女神」
ぼくは若くはないんだからね、とガラスケースに口付けをしてブルーはシャングリラへと一気に飛んだ。
サイオンを見せても怯えなかった愛しい女神。
一日でも早く、君が欲しいよ……。
それから暫くフィシスの許を訪れることは叶わなかった。一日千秋の思いで次の機会を待ち、ようやくガラスケースのある部屋に立ったブルーの頬を温かな何かが撫でてゆく。
シャングリラでは馴染み深い、その気配。けれど人類の世界、それもユニバーサルの中枢とも言える奥深い部屋で感じ取ることなど無かった気配。
(……何故……)
何処から、と探るよりも前にガラスケースの中でフィシスが動いた。
美しい人魚、地球を抱く女神。
『…まさか…。フィシス、今のは君なのか…?』
この部屋で初めて紡いだ思念に、言葉にならない思念が返る。
ブルーを慕う思いだけで占められた、ただただ、「好き」という感情。
「好き」よりももっと舌っ足らずな、「すき」と告げる幼く無垢すぎる思念。
『……フィシス……。どうして、君が……』
君にサイオンは無かった筈だ、と声に出さなかったブルーの言葉に答える代わりに、フィシスはガラスケースの中に湧き上がった泡を口に含んで飲み込んでみせた。
フィシスとサイオンの玉で戯れた記憶が蘇る。
あの日、最後に送り込んだ小さな青いサイオンの玉をフィシスはコクリと飲み下した。ブルーのサイオンを食べたフィシスが身の内にサイオンを持っている。人をミュウにする魔法など何処にも無いと思っていたのに、自分がフィシスをミュウにしたのか……。
呆然とガラスケースを見詰めるブルーにフィシスの無邪気な思念が伝わって来た。
この間の遊びの続きをせがむ愛らしい女神。
君が望むなら、いくらでも。…ぼくのサイオンを欲しいというなら、いくらでも……。
ブルーが送り込むサイオンの玉と戯れ、フィシスは気まぐれにそれを飲み込む。
もっと…。もっと、飲み込むといい。
君のサイオンが強くなるから。ぼくと同じミュウになれるから…。
もうシャングリラに君を迎えても大丈夫。
誰も君のことを人間だなどと言いはしないし、誰も気付きはしないだろう。
ぼくの女神、ぼくだけの愛しい、大切なフィシス。
いつかシャングリラに君を連れてゆくよ……。
ブルーが与えるサイオンの玉を、青く輝く泡を何よりも好んだフィシスはミュウとなった。
だが、研究者たちはそれと気付かず、彼女をガラスケースから取り出すための準備を始める。自分と接触していたことがフィシスに災いを招かぬように、とブルーはフィシスに別れを告げた。
「…フィシス。もうすぐ君が其処から出る日がやって来る。ぼくは必ず迎えに来るけれど、君の記憶は消してゆくから」
待って、と小さな悲鳴のような思念がブルーの心を掠めたけれど。
「さようなら、フィシス。…また会える日まで、どうか元気で……」
ぼくの女神、と最後に呼んでガラスケースに口付ける。
それがブルーの別れの挨拶。
フィシスが好きだった青く光る泡が無数に湧き上がり、少女の身体を包み込んで消えた。少女が懐いて慕い続けた、ブルーとの日々の記憶と共に……。
ブルーのサイオンの泡から生まれた、ブルーが魅せられた地球を抱く女神。
ガラスケースから出された少女は研究者たちにフィシスと名付けられ、ユニバーサルで成長する。
半年の後、全てのデータを採取された彼女はミュウであるとされ、処分が決まった。
フィシスと初めて出会った時から、ブルーが待って、待ち焦がれた日。
…待っていて、フィシス。
ぼくが今、行く。
いつか必ず迎えに行くと、ぼくは約束しただろう?
君は忘れてしまったけれども、ぼくは約束を違えない。
ぼくの女神、ぼくだけの大切な女神。
ぼくが愛した夢の化身…。
処分されると決まったとも知らず、ベッドの上でタロットカードを繰っていたフィシス。
現れた死神のカードにその顔が曇る。
「…大丈夫」
あなたは? と尋ねたフィシスの問いには答えず、ブルーはフィシスの右手に自分の手を添えて死神のカードの天と地を替えた。
死神のカードは正位置ならば「死」を、逆さになれば「死地からの生還」を意味する。
「…旅立ちの時」
え? と怪訝な面持ちのフィシスの頬を両手で包み、ブルーは優しく囁いた。
「ぼくを信じて。君を必ず守るから」
フィシスの小さな手がブルーの両手に、その温もりを確かめるように重ねられた。
記憶は確かに消したのだけれど、フィシスは自分を覚えている。
その魂の底で、ブルーと過ごしてきた日々を。
「…こっちだ。フィシス」
小さな左手をしっかりと握り、ブルーはフィシスを部屋の外へと導いた。
誰にも追わせない、追わせはしない。
ぼくは女神を手に入れる。
フィシスと二人、通路を走って、それからシャングリラへと青い空を翔けて。
ついに手に入れた地球を抱く女神を、ミュウたちは感嘆と称賛の言葉を尽くして迎えた。
元は人類であるとも知らず、無から創り出された者だとも知らず…。
そしてフィシスは女神となった。
ブルーのサイオンの泡から生まれた、ブルーの、そしてミュウたちの女神。
ぼくの女神、ぼくの大切なフィシス。
君の秘密は君自身にも教えない。
ユニバーサルでの記憶も君のために消すよ、君が幸せでいられるように。
ぼくのサイオンから生まれたミュウだと、君さえも気付かないように。
全てはぼくが背負ってゆくから……
フィシス、君の抱く地球をまた見せてくれないか?
青く、何処までも美しい星。
本物の地球に辿りつけるよう、ぼくはミュウたちを導こう。
君はぼくの行く手を照らし出す女神。
美しく清らかな、ぼくだけの女神。
フィシス……。
君は知っているかい?
遠い遠い昔の地球の神話に、青い海の泡から生まれた美しい女神がいたことを…。
アフロディーテ・了
※お蔵入りしていた、まさかのブルフィシ。
もう永遠に「出す日は来ない」と思っていました、いや、本当に。
元々はブルフィシ派だった管理人、遥か昔に、「いつか友への贈り物に」と書いた件。
ところが機会が訪れないまま、ブルフィシな友は別のジャンルに移動という。
管理人も既にハレブルの人になっていたので、「もういいや」と、片付けて終わり。
そして流れた長い歳月、アニテラがBlu-rayになって帰って来ることに。
「これを逃したら、公開のチャンスは二度と無い!」と、蔵から引っ張り出して来ました。
元のファイルに、「2013年8月8日」という恐ろしい日付が。
「そうか、殆ど10年前か」と、自分が一番、ビックリかも。
青い地球を抱く神秘の女神。その身に地球を宿した少女。
ブルーが何処からか船に連れて来た、幼く愛らしい顔立ちのフィシス。
彼女はたちまち、シャングリラの皆の心を捉えた。誰もが魅せられ、触れたがった少女。
小さな白い手、それを取るだけで流れ込んで来る地球の映像。青い水の星、宇宙に浮かんだ一粒の真珠。フィシスの母の記憶だという、美しい地球。
その上、占いの名手でもあった。盲いた瞳を感じさせずに繰ってゆくカード、未来を告げるタロットカード。誰も彼女のようには出来ない、予知の力など持ってはいない。
青い地球と、未来を読み取る力と。
ブルーが「女神」と呼び始めずとも、フィシスは女神と呼ばれただろう。彼女は特別なのだから。神に祝福された存在、彼女自身が神そのものにも見えるのだから。
ブルーがフィシスに「ぼくの女神」と呼び掛ける姿を、何人の仲間が目にしたことか。
ミュウの長であり、比類なきサイオンを持つブルー。そのソルジャーが「ぼくの女神」と愛し、慈しみ、それは大切に扱うフィシス。
けれども、ブルーは皆がフィシスの手に触れることを、けして咎めはしなかった。
女神は誰にも等しく女神であるべきだから、と。
フィシスが抱いている地球は神の恵み、誰もが恵みを受けられてこそ、と。
皆が女神と認めるフィシスに、ブルーが与えた新しい衣装。
シャングリラに来た時に纏っていた白、それとは違ったデザインと色の。
他の子供たちが着ている制服とも、まるで違った。淡いピンクの丈の長いドレス、ふうわりと腕を包み込む袖。蝶の羽にも似た形の袖、フィシスの動きに合わせて揺れる。
それから、細く金色に輝く鎖で頸に下げられた、ミュウの証の赤い石。誰の服にも付いている石。
「どうして服に付いていないの?」と首を傾げて尋ねたフィシスに、ブルーは優しく、こう答えた。
いつか素敵な大人になったら、この石を使って君に似合う首飾りを作ってあげる、と。
その日が来るまではペンダントでいいと、こうして下げておくのがいいよ、と。
大きくなったら、面差しも変わるものだから。
幼い間に決めてしまうより、時を待ったら、より素晴らしく映える飾りが作れるだろうと。
ブルーが大切に慈しむ少女。それは愛らしい、ミュウの生き神。
フィシスをシャングリラに迎え入れて間もなく、船の仲間たちは、そう遠くない未来を思い描き始めた。誰からともなく、ごくごく自然に生まれて膨らんだ未来への希望。
彼女が美しい大人の女性に成長したなら、素敵なことが起こるだろうと。きっと起こるに違いないから、もっと早く時が流れないものかと。
それは閉ざされたシャングリラに住むミュウたちにとっては、別世界から来た夢のよう。船の外にはあるだろう世界、フィシスが運んだ新しい風。本でしか見たことが無かったもの。
まるでお伽話の世界の出来事、一日も早くこの目で見たいと誰もが夢見る。
夢は煌めき輝きを増して、自分もそれに携わりたいと願う者たちが一人、また一人と増えてゆく。
そうして最初に夢を形にと、この手で紡ごうと思い立ったのはシャングリラの女性たちだった。
今から紡いでも、けして早すぎはしないだろうと。
充分な時がまだあるのだから、細かく細かく紡げるだろうと。
女神を迎えたシャングリラ。
雲の海の中で時は静かに、けれど確かに流れていって。
穏やかな日々の中、頸から下げた赤い石をキラキラと揺らして、幼いフィシスはブルーと戯れ、無邪気に駆ける。開かぬ瞳を苦にもしないで、はしゃいで、靴も脱いでしまって。
まだまだ小さく、ほんの子供な女神を捕えたブルーの腕。
男性にしては華奢なブルーでも、ヒョイと持ち上げてしまえる羽根のように軽いフィシスの身体。
「捕まえた、フィシス」
今日の鬼ごっこはこれでおしまい、とブルーはフィシスを高く抱き上げ、それからストンと床に下ろした。フィシスには此処が相応しいから、とブルーが選んだ天体の間。そこの床へと、磨き上げられた大理石の床へ。
フィシスの弾んだ息が落ち着くのを待って、ブルーは穏やかな声音で問うた。小さな女神の前に屈んで、その顔を覗き込みながら。
「覚えているかい? ぼくが君を初めて捕まえた日から、明日で一年になるんだよ」
君を捕まえて、みんなに君を紹介して。…あの日からもう、一年も経ってしまったなんてね。
「…そうだったわ。この船に来てから一年なのね…」
とても早かったわ、ブルーに会ったのは昨日みたいな気がしているのに。
…だけど、私は此処に来るまでのことを覚えてないから、長かったのかもしれないけれど…。
だって、私には比べるものが何も無いんだもの。
私の時間は一年前に始まったばかりで、その前は思い出せないんだもの…。
「大丈夫。…これから比べていけばいい。最初の一年、次の一年。この船で過ごした時の長さを」
ぼくと一緒に長い時間を生きてくれるね、ぼくのフィシス。…ぼくの大切な、可愛らしい女神。
どうか、ぼくにも女神の恵みを…、とブルーが取った小さな白い手。その甲に恭しく落とされた口付け、本物の女神にするかのように。
フィシスは頬をほんのりと染めて、それは愛らしく頷いた。
「もちろんよ。ブルーと一緒に生きるのでしょ? このシャングリラで、ブルーと、ずっと」
私はそのためにいるんだもの、と迷いもせずに返したフィシスを、ブルーは胸に抱き込んだ。こみ上げてくる愛しさと共に、幼いフィシスへの想いと共に。
一年が満ちた、次の日のこと。
いつものようにブルーを迎えて、お茶の時間を過ごしていたフィシス。まだ自分では淹れられないから、アルフレートが用意した紅茶を前にして。
其処へ客の来訪をアルフレートが告げに来た。「お通ししてもよろしいでしょうか」と。
「お客様? …エラ様かしら、それともブラウ様?」
「いえ、それが…。フィシス様はさほど御存知ない方々かと」
アルフレートが伝えた三人分の女性の名前。
シャングリラで暮らす仲間たちの名は、ブルーから繰り返し聞かされているから、フィシスにも覚えはあるのだけれど。その顔までは思い浮かばない、流石に数が多すぎるから。
「…私に何の御用かしら…?」
何処でお会いした方だったかしら、と不思議がるフィシスにブルーが微笑む。
「会ってあげれば直ぐに分かるよ。…アルフレート、通してあげたまえ」
「はい、ソルジャー」
忠実な従者が案内して来た三人の女性は、些か緊張した面持ちで。
暫く流れた沈黙の後に、真ん中の一人が思い切ったように口を開くと、差し出した包み。
「フィシス様、これを受け取って下さいますか? シャングリラの女性たちから、フィシス様への贈り物です」
此処へいらしてから一年が経った記念にどうぞ、と手渡そうとする女性たちだけれど、フィシスにとっては思わぬ出来事。どうすれば、と途惑っていたら、ブルーが出した助け舟。
「遠慮しないで受け取るといいよ。シャングリラのみんなも喜ぶからね」
「…そうなの? 私、贈り物を貰えるようなことは一つもしていないのに…」
いつもブルーと遊んでばかりよ、と困りながらも、フィシスは包みを受け取った。
幼く小さなフィシスの手にも重さを感じさせない包み。まるで箱だけであるかのように。
何なのだろう、と思うよりも前に、さっきの女性がおずおずとフィシスを見詰めて言った。
「…あの…。開けてみて頂けますか? フィシス様のお気に召すといいのですけれど…」
お願いします、と願う彼女と、フィシスを見守るブルーの笑み。それは優しく、フィシスを促す。せっかくの贈り物なのだから、と。
「ほら、フィシス。開けてごらん」
みんなを待たせちゃいけないよ。もう、それは君の物なんだから。
「……何かしら?」
開かない瞳は包みを透して中を見ることも出来るのだけれど、それはいけないことだから。包んでくれた女性たちの気持ちを無にしてしまうと知っているから、そっと解いたリボン。くるんである紙も丁寧に剥がし、箱を開けてみて驚いた。
幾重にも折り重なって畳まれた、真っ白な薄い、薄い生地。重さが無いのは糸だったから。生地の向こうが透けて見えるレース、それはさながら糸の宝石。
繊細に編まれ、織り上げられた細工。蜘蛛の糸のように細い糸を編み、可憐な花の模様と枝葉を幾つも幾つも浮かび上がらせた…。
どれほどの手間がかかったのだろうか、これだけの糸を編み上げるには。
模様を織り込み、これほどに美しく、幅も長さもありそうなレースを作り上げるには。
幼いフィシスには想像もつかない、その作業。糸を編んで生地に仕上げる仕事。どうして自分がそれを貰えるのか、理由も分からず、糸の細工を手にしていたら。
「この船の女性たちが力を合わせて作りました。レースを編むのは初めてでしたが、ライブラリーで資料を集めて、道具を揃えて、模様を決めて」
何人もが何度も交替しながら編み上げました、と語った女性たちの顔に浮かんだ誇らしさ。一大事業をやり遂げたのだ、と満足そうな彼女たち。
そして、彼女たちはこう付け加えた。
「フィシス様はまだ幼くていらっしゃいますから、今からドレスを御用意することは出来ません。ですから、皆でベールにしようと…」
いつかソルジャーと御結婚なさる時にお使い下さい、このベールを。
「……結婚? 私が、ブルーと…?」
そうだったの? と盲いた瞳で見上げたフィシスに、ブルーの笑みが向けられた。
「らしいね、フィシス。…ぼくと結婚してくれるかい?」
君が大きくなったなら。この真っ白なベールを被るのに、相応しい女性になったなら。
「…そ、それは…。……喜んで……」
だって私はブルーのものよ、と頬を真っ赤に染めたフィシスに、ブルーは、それは嬉しそうに。
「ありがとう、フィシス。…ぼくの女神」
ぼくも楽しみに待っているから、と染まった頬に贈られた口付け。これは約束、と。
他ならぬソルジャーの求婚とあって、女性たちから上がった歓声。彼女たちはベールに織り込まれた模様の意味を説明してから、天体の間を辞して帰って行った。
糸で織られた花の模様はギンバイカ。美と愛の女神に捧げられた花、愛と不死と純潔の象徴の花。
遠い昔から結婚式の花飾りや花嫁のブーケに使われた花だと、幸せな結婚を願って編んだ、と。
フィシスがブルーの花嫁になる日をシャングリラ中の者が夢見て、待ち望んだ。婚礼の良き日が訪れるのを。
一年近くも交替で絶えず作業を続けて、糸の宝石を編み上げた女性たちも。フィシスの愛らしさと地球に魅了された男性たちも、フィシスとさほど年の変わらない子供たちも。
ミュウの長として皆を導き続けて来たソルジャーと、地球をその身に抱いた女神の結婚式。
それはシャングリラ始まって以来の慶事なのだし、盛大な祝いの日となるだろう。
紫のマントを着けたブルーがフィシスのベールをそっと持ち上げ、誓いの口付けを贈るだろう日。
お伽話の王子と姫君さながらの婚礼、どんな画家にも描けないくらいに美しいカップルが誕生する日。きっと宇宙の何処を探しても、この二人よりも気高いカップルは誰にも見付け出せない。
ブルーは皆の誇りだったし、フィシスは女神。
今は幼くとも、その面差しには美の蕾が既に宿っていたから。育つにつれて花開くことは、誰の目にも容易に見て取れたから。
ソルジャーの伴侶となるのに相応しい女神、似合いのフィシス。いつかブルーと釣り合う背丈に、年頃に成長したならば。
フィシスが花嫁のベールを被る日、婚礼のためのドレスを纏ってブルーの許へと歩んでゆく日。
シャングリラには祝福の声が溢れて、祝いの花飾りが船を彩るだろう。
他にも色々、出来る限りの祝賀の行事。ライブラリーの資料でしか誰も見たことなどない、遠く遥かな昔の地球の王族の婚礼、ロイヤル・ウェディングと呼ばれた婚礼。
国を挙げての結婚式をシャングリラの中で再現しよう、と意気込む者も多かった。この船の中で出来ることは、と書き抜いているような者たちも。
皆がその日を夢見た婚礼、ベールの用意はとうに整い、被るだけになっていたのだけれど…。
「…出番が無いままでしたわね…」
せっかく頂きましたのに、とフィシスがホウとついた溜息。その白い手に糸の宝石。
もう何回目になるのだろうか、ブルーと二人でこの記念日を迎えるのは。ミュウの箱舟に初めて来た日を、シャングリラに迎え入れられた日を。
あの日から長い歳月が流れ、淡いピンク色だった幼い日のドレスはもう過去のもの。今のフィシスが身に纏う色は、ブルーのマントと対をなすような紫がかった桃色になった。デザインもそれに似合いのものに。気品溢れる女性らしいものに、その美を引き立たせるものに。
頸に下げていたペンダントの石も、今は華やかな細工の首飾りの中。細い首筋に輝く金色、その中に赤い色の石。ブルーの瞳を思わせる石、この船の皆が付けている石。
ブルーの隣に並んで立つには、対となるには相応しい女神に成長を遂げたフィシスだけれど。それは美しく育ったけれども、あの遠い日に交わされた約束は今も果たされないまま。
フィシスの華奢な白い手の中、花嫁のベールはあるというのに。
細い細い糸で編まれたレースは、糸の宝石は、花嫁を飾る日を待っているのに。
ブルーはフィシスに惜しみなく口付けを贈るけれども、抱き締めることもよくあるけれど。
贈られるキスは頬に、額に、白い手の甲に。
それが全てで、数え切れないほどに贈られた口付け、その中に一つも無かった口付け。唇へのキスは未だに贈られないまま、恋人同士のキスは無いまま。
結婚式の日、カップルが交わす誓いのキスにも似た口付けは。唇を重ね合わせるキスは。
そうなった理由は、仲違いではなくて、自然のなりゆき。
結婚の約束を交わしたあの日は、二人とも気付いていなかっただけ。
お伽話の王子と姫君のように、その日だけを夢に描いていたから。互いに惹かれ合う対であるなら、いつか結婚するものなのだと、心の底から信じていたから。
だからブルーはフィシスに誓って、フィシスもそれに応えたけれど。その日が来るのを二人とも夢に見たのだけれど。
こうして釣り合う姿になって初めて、お互い、ようやく気が付いたこと。
ブルーには身体ごと、肉体ごと誰かの愛を求める感情が無くて、欲しいものは内側の魂だけ。魂を、心を宿しているから、その身の持ち主を愛するだけ。身体は魂の器だから。
フィシスの方でもそれは同じで、ただ心だけが欲しかったから。愛してやまない心を宿したブルーが側にいてくれれば良かったから。
それ以上を望みはしなかった。ブルーも、対となるべきフィシスも。
互いの心が常に通い合い、深く結ばれていればそれで充分。口付けなどを交わさなくても、手と手を絡めることが出来れば、充分に心は満たされたから。
互いが互いのためにいるのだと、心はいつでも繋がっていると、二人が共に抱いた想い。
結婚式などもう要らなかった、誓いのキスを交わすことさえ。
もう充分に幸せなのだし、互いの身体を重ねたいとは微塵も思いはしなかったから…。
遠い昔に、幼かったフィシスがシャングリラに迎え入れられた記念日。
いつかはその日に華燭の典をと、ソルジャーとミュウの女神の結婚式を、とシャングリラの皆が待っていたのに。ソルジャーの伴侶になって欲しいと誰もが望んでいたというのに、果たせなかった不甲斐ない女神。
今年もその日が巡って来たのに、ベールの出番は来ないまま。花嫁を飾るベールの出番は。
結婚式など要らない二人だったのだ、と皆は分かってくれているけれど、今では誰も結婚式をと口にすることも無かったけれど。
それと知れる前に、皆が婚礼を夢見ていた日に貰ってしまった、心がこもった贈り物。
花嫁になる日に使って欲しいと、ドレスを作るにはまだ早いから、と。
気が遠くなるほどの時間と手間とをかけて、編み上げられた繊細な糸の宝石。シャングリラ中の女性たちが集い、交替で編んだというレース。
幸せな結婚を祈るギンバイカ、美と愛の女神に捧げられた花。それを織り込み、思いをこめて編まれたベールをどうしたらいいというのだろう。
いつまで待とうと、どれほどの時が流れ去ろうと、フィシスがベールを被る日は来ない。
結婚式の日が来ない以上は、花嫁のベールの出番も来ない。
このまま大切に仕舞い込まれて、たまにこうして手に取られるだけ。
年に一度だけ、記念日が巡ってくる度に。
結婚式はこの日にしようと、シャングリラの皆が夢を描いていた日。
遥かな昔にブルーと結婚の約束を交わしたあの日。
同じ日付が巡ってくる度、記念日の度に、溜息をつくしかないベール。
こうなると思っていなかった頃は、心が躍ったものなのに。
いつになったら被れるだろうと、ブルーの花嫁になれるだろうと。早く結婚式の日が来てくれないかと、何年待てばいいのだろうと。
結婚式の日を夢見た少女は、もういない。
それは叶わないと知った女神がいるだけ、花嫁になる日は来ない女神が。
皆の心がこもったベールを、糸の宝石を無駄にしてしまった、どうしようもなく不甲斐ない女神。
こんな筈ではなかったのに。この贈り物は晴れの日を迎える筈だったのに。
どうしてこうなってしまったろうか、と溜息を零して眺めるしかない糸の宝石。
細い細い糸を傷つけないよう、爪で引っかけてしまわないよう、そっと指先で撫でるだけ。
今年もこの日が巡って来た、とレースに触れていたフィシスの白い手の上、そっと優しく重ねられた手。いつもはめているソルジャーの手袋、それを外したブルーの右手。
ハッと驚いて顔を上げれば、ブルーの左手にも手袋は無くて。
「……出番ならいつか、あると思うよ」
耳に届いたブルーの言葉。それが意味する所は一つ。
花嫁のベールの出番があるのは結婚式だけ、婚礼の日だけ。ブルーはそれを望むのだろうか、いつか出番があると言うなら。
その日は来ないと思っていたのに、結婚など自分は望まないのに。
思わぬ言葉に固くなった身体、息をすることを忘れた唇。初めてブルーを怖いと思った、この人は何を望むのかと。いったい自分をどうしたいのかと、心だけでは足りないのかと。
けれど、ブルーは「そうじゃない」と穏やかな笑みを浮かべた。そうじゃないよ、と。
「君とぼくとで使うんじゃない。…まだ分からないけれど、遠い未来に」
きっと出番はあるだろうから、とブルーも糸の宝石を撫でる。手袋をはめていない手で。
「…ブルー…?」
何を、と不安がフィシスの心を掠めてゆく。遠い未来という言葉。
ブルーの命は長くはない。遠い未来までゆけるほどには。
まだ当分は大丈夫だろうと、生きていられるとブルー自身が口にしているし、タロットカードもそうだと告げてはいるけれど…。
けれど、その日は遠くはない。何十年も残ってはいないだろう寿命、いつか尽きるだろう命。
分かりもしない遠い未来を生きてその目で見られるほどには、ブルーの時間は残されていない。
そんな未来を口にされても、恐ろしくて身体が竦み上がるだけ。
愛おしい人が、対になる人が、ブルーがいないだろう未来。
自分は生きてゆけるのだろうか、ブルーがいなくなった世界で。
たった一人で置いてゆかれて、それでも生きてゆけるのだろうか…。
「…心配しないで。ぼくのフィシス」
まだまだ先のことなのだから、とブルーは首を左右に振った。ずっと先だよ、と。
そう簡単に死にはしないし、まだまだ君と生きてゆくから、と。
「でも、ブルー…」
「ぼくの寿命は長くはない。遠い未来まで行けはしないと分かるけれども、まだ死なないよ」
まだまだ君の側にいたいからね、と微笑んだブルー。まだ死ねない、と。
「そうは思っても、いつかは時が来るだろうから…。このベールの出番が来そうな時には、ぼくはこの世にいないだろう。でもね、フィシス…」
ぼくの思いは生き続ける。それを忘れないで、ぼくの女神。
君の中にも、これから先の若い世代にも、ぼくの思いはずっと継がれてゆくだろうから。
このベールにこめられた思いのように、とブルーの指先が糸の宝石の上を辿った。
細い細い糸を編んで織られたギンバイカの花。幸せな結婚を祈る模様を。
ギンバイカが幾つも咲いているねと、これを被る花嫁はきっと幸せになれるのだろうと。
「ぼくたちはこれを使わなかったけれど…。結婚式を挙げはしなかったけれど…」
次のソルジャーは、誰か素敵な人と恋をして結婚するかもしれないだろう?
それとも、そのまた次のソルジャーが結婚式を挙げるのかな?
そういう時には、このベールが役に立つんだよ。長く受け継がれて来たベールとしてね。
君のベールの出番が来るんだ、きっといつかは。
「…次のソルジャー…。それに、その次のソルジャーだなんて…。その頃には今よりもずっと古いベールになっていますわ、そんな古いものを使うのですか?」
新しい方がいいでしょうに、とフィシスは首を傾げてしまった。
結婚式は華やかで晴れやかなもの。何もかも新しくするのが似合いだろうに、花嫁を飾るためのベールに古いベールを使うだなんて、と。
「ライブラリーで調べたんだよ、ベールのことを。…花嫁のベールはどういうものかを」
この贈り物を、君はずいぶん気にしているから…。無駄にしてしまったと自分を責めているから、他に何か使い道が無いだろうかと思ってね。
ベールのままで置いておく代わりに、結婚式が済んだら他の何かに仕立てるだとか。
そうしたら、見付かったんだよ、フィシス。
ベールはベールのままでいいんだ、このままの形で残しておけば。それが正しい使い方だよ。
遠い遠い昔、ずっと昔に、人間が地球で暮らしていた頃。
ヨーロッパと呼ばれた場所があってね、其処では結婚式のベールは受け継いでゆくものだった。親から子供へ、子供から孫へ。
前の花嫁と同じベールを被ったんだよ、遠い昔の花嫁たちは。
糸で編まれたものだったから、何百年もは流石に使えなかっただろうけれど、とブルーは語る。
それでもベールが傷まない限り、大切に継がれていったのだろうと。
「ぼくたちの世界ではピンと来ないけれど、母親から子供へ、そのまた子供へ…。そうやって継いでゆくのがベールで、古いベールには祈りがこもっていたんだよ」
母親や、もっと前の人やら、幸せな結婚をした花嫁たち。その人たちのように幸せに、と。
今の世界は血の繋がった家族はいないし、次のソルジャーでかまわないだろう。君のベールを被る花嫁を迎える人は。…そのまた次のソルジャーでもね。
それにね、古い物を使うことにも意味があったよ、結婚式では。
同じヨーロッパにあった言葉で、サムシング・フォーというのがね。
「…サムシング……フォー?」
「そのままの意味なら、何かを四つ。…花嫁が幸せになるための言い伝えだよ」
おまじないと言った方がいいのかな?
結婚式には、新しい物を一つ、古い物を一つ。借りた物を一つと、青い物を一つ。そういう何かを着けた花嫁は幸せになれるらしいよ、それがサムシング・フォーなんだ。
受け継がれてきたベールを被れば、古い物を一つ、身に着けたことになるだろう?
君のベールは二重の意味で、いい贈り物になるんだよ。
幸せを願って受け継がれてゆくベールな上に、サムシング・フォーの古い物を一つ。花嫁が幸せになれますように、と祈るおまじないが二重になっているんだから。
だから、このベールは大切に残しておくのがいいよ、とブルーの指がなぞるギンバイカの模様。
いつか使える時が来るまで、これを被る花嫁が現れるまで。
「…ぼくはこの目で見られないけれど、君が被せてあげるといい。その幸せな花嫁にね」
そして、ぼくからの言葉を伝えて欲しい。
次のソルジャー……。なんという名前か分からないけれど、その人といつまでも幸せに、と。
ソルジャー・ブルーがそう言っていたと、伝えるようにと言われたから、と。
そうしてくれれば、このベールはきちんと継がれるんだよ、次の世代へ。…ぼくの思いも。
このベールは無駄になりはしないから、君は心配しなくてもいい。
いつか素敵な贈り物になるのに決まっているから、大切に取っておきさえすれば。
「ええ、ブルー…。私のために調べて下さったのですね、このベールのこと…」
そんな風に使える物だったなんて、夢にも思いませんでした。
すっかり無駄になってしまったと、これを見る度に申し訳なく思うばかりで…。
けれど、心が軽くなりましたわ、いつか役立つ日が来るのなら。
このまま仕舞っておくのではなくて、被せてあげられる人が現れるのなら…。
良かった、とフィシスがついた安堵の吐息。
遠い日に贈られた糸の宝石、繊細な糸を編んだベールは次の世代に受け継がれるのだ、と。
ブルーの隣で被る筈だった、花嫁のベール。被らないままになってしまったベール。
その使い方を、それは素晴らしい使い道を調べて来てくれたブルー。いつも自分を気遣ってくれる、温かく心優しいブルー。
結婚式は挙げないままだったけれど、花嫁になりはしなかったけれど。
花嫁になるより、伴侶になるより、ずっとブルーに近い所で長い年月を過ごして来た。
そう思うから、手袋をしていないブルーの手を取り、そっと握った。
この人の側にずっといたいと、いつまでも共に生きてゆきたいと。
「ブルー…。あなたが仰るのなら、このベールは大切に取っておきますわ、これからも」
あなたの思いを、あなたと過ごした幸せな日々を、遠い未来の花嫁たちに届けましょう。ベールを被せてあげる時には、あなたからの言葉を必ず添えて。
でも、ブルー…。今はまだ、あなたの言葉は誰にも伝えはしませんわよ?
伝える相手がいないのですから、とフィシスは胸を過った不安を消そうとブルーの手を強く握り締めた。華奢なその手で、離すまいとして。
いつかは逝ってしまうだろう人、自分を置いてゆくのだろう人。
その日はまだまだ来ないのだからと、今は二人でいるのだからと。
「あまり意地悪を仰らないで。…まだ見えもしない未来のことなど」
伝えてくれだなんて、そんな日はまだ来ませんわ。ずっと遠くで、まだまだ先で…。
なのに今からそう仰られると、考えただけで恐ろしくなってしまいます。
あなたがいらっしゃらないだなんて、私が一人で残されるなんて…。
それを思うと、あなたと一緒に逝ってしまいたくなりますもの。この世界に私一人だなんて…。
「いけないよ、フィシス。ぼくと一緒に来てはいけない、君はミュウの女神なのだから」
それに…。君が語ってくれなかったら、ぼくはすっかり忘れ去られてしまいそうだ。年寄りのことなど、若者はすぐに忘れるものだよ、彼らには未来があるのだから。
生きてくれると約束して、とブルーはフィシスの白い手を強く握り返した。君は生きて、と。
「ぼくの思いを、ぼくが生きた証を伝えて欲しい。…遠い未来に、この花嫁のベールと一緒に」
…シャングリラの皆はソルジャーとしてのぼくしか、きっと覚えていないだろうから…。そうでないぼくを。ぼくの思いを。君を愛して、君と共に生きたぼくの記憶を…。
花嫁に被せてあげる時に。
ぼくの言葉を伝えてくれる時に、ぼくがどんなに幸せに生きていたのかを。
君と一緒に生きていた日々は、とても幸せなものだったと…。
このベールはそれを託すためには、きっと何よりも相応しいから、とブルーが撫でる糸の宝石。
幸せな結婚を祈るギンバイカの模様の、繊細なレースの花嫁のベール。
「そうですわね…。あなたと結婚式を挙げるために、と頂いたベールですものね」
結婚式を挙げるつもりでした、と必ず伝えておきますわ。
挙げる必要が無いと思ったから、式は挙げずにいましたけれど、と。
「すまない、フィシス。…結婚しようと約束したのに、破ってしまって」
ウェディングドレスを作らせることも、着せてあげることも出来ないままで…。
きっと君には似合うだろうに、とブルーが持ち上げた糸の宝石。手袋をはめてはいない両手で、そうっと広げてフィシスの頭へ。金色の髪が輝く上へとそれを被せた、そう、まるで花嫁のベールのように。
「…ブルー…?」
何を、とフィシスは途惑ったけれど、ブルーが「似合うよ」と浮かべた微笑み。
「結婚式は出来なかったけど…。一度も使っていないベールを次の世代に譲るというのも、変な話だと思わないかい?」
…綺麗だよ、フィシス。思った通りにとても素敵だ……。
それだけで君は花嫁に見える、とブルーが顔を綻ばせたフィシスの立ち姿。床まで届いた髪を覆ってまだ余りある糸の宝石。遠い日に編まれた花嫁のベール。
ブルーはフィシスをうっとりと眺め、やがて両腕で強く抱き寄せた。ギンバイカの模様を織り出した純白の花嫁のベールごと。使われることがついに無かった、糸の宝石ごと。
そうしてそのまま溶け合ったように、二人は長いこと動かなかった。
命の通った彫像のように、言葉を交わすことさえせずに。
ただ心だけを通い合わせて、互いの想いを通い合わせて、抱き合ったままで…。
ミュウの長と、地球をその身に抱く女神の心触れ合わせるだけの恋。
魂だけがあれば充分だった恋、身体は要らなかった恋。
お伽話の王子と姫君、それほどに似合いの対なのに。互いが互いのためにいるのに。
これ以上の愛は、恋は無いだろうに、結婚式すらも挙げなかった二人。
側にいられればそれだけでいいと、その上に何を望むのかと。
誰よりも深く愛し続けて、恋をし続けた二人の想いを、真実の愛を知るのは糸の宝石だけ。
たった一度だけフィシスを飾った、ブルーが被せた糸の宝石。
遠い未来まできっと受け継いでゆかれるのだろう、ギンバイカの模様の花嫁のベール。
それに秘められた二人の想いに気付く花嫁を迎える者は、次のソルジャーか、そのまた次か。
フィシスがベールを被せる花嫁、結婚式を挙げる花嫁。
その時にはもう、ブルーは遠くへ逝ってしまっているのだけれど。
フィシスを残してゆくのだけれども、その日まではまだ遠いのだから。
まだまだ二人の恋は続くから、遠い未来へと祝福を贈る。
遥かな未来に生きる花嫁に、その晴れの日に。
ソルジャー・ブルーと、彼のためにだけ生きるフィシスから思いをこめて。
……どうか、いつまでも幸せに。
幸いに満ちた道であるよう、幸せに生きてゆけるよう。
自分たちのためにと贈られたベールを受け継いでゆく、まだ見ぬミュウの花嫁たちよ。
彼女たちが愛する伴侶と生きる未来が幸多きものであるように。
フィシスが贈られた糸の宝石、それを次へと、またその次へと幸せに受け継いでゆけるよう。
自分たちが今、こうして幸せであるように。
ミュウの長と地球を抱く女神が、幸せに満ちているように……。
糸の宝石・了
※元々は「ブルフィシ好き」だったんです、というお話。ROM専だった時代のこと。
今じゃ立派にハレブルな人で、誰も分かってくれないと思う…。
アルフレートが用意してくれたティーセット。彼の退室を待って白磁のカップに紅茶を注ぐ。シュガーポットの蓋を開け、銀のティースプーンで砂糖を掬ってサラサラと…。最初に一杯、そして。
「…フィシス?」
手を止めたフィシスにブルーが「どうしたんだい?」と微笑みかける。
「いえ…。なんでもありませんわ」
ふふ、と微かに笑って更にティースプーン半分の砂糖を紅茶に加えると、それをブルーに。自分のカップに砂糖を入れるフィシスをブルーの赤い瞳が見詰めた。
「…本当に? それにしては楽しそうだね、フィシス」
「昔のことを…。少し」
私が此処に来た頃のことを、とフィシスはクスッと小さく笑った。
紫のマントの王子様。
シャングリラに来る前の記憶はブルーが消してしまったために無かったけれども、ブルーはフィシスの王子様だった。
何処とも知れない恐ろしくも悲しい世界から救い出してくれた王子様。
フィシスがシャングリラでの生活に馴染んでいるか、何か不自由はしていないかと一日に何度も訪ねて来てくれる優しい人。
自分よりも遙かに背が高く、軽々と抱き上げてくれるけれども、ミュウたちの中では年若い部類に入るであろうスラリとした立ち姿の美しい人。
その王子様が外見通りの年齢ではなく、王子様ならぬ王様だったと気付くまでにはかなりかかった。そのくらいにブルーはフィシスの所に入り浸っていたし、それを止める者も無かったから。
今にして思えば王様だったからこそ、そんな自由があったのだけれど。
「ハーレイ。ソルジャーはまた、あのお嬢ちゃんの所かい?」
「…そのようだ。地球を見に行くと仰っていた」
ハーレイがブラウの問いに答える。彼らの居る場所はブリッジではなく、専用の休憩室だった。
「フィシスの地球は鮮やかだ。ソルジャーが夢中になっておられるのも無理はない」
「どうだかねえ…。地球はオマケで、お嬢ちゃんの御機嫌を取りたいだけだと思うけどねえ?」
いつ行ったって二人で仲良くお茶を飲んだり遊んだりだよ、とブラウが言えば、ゼルが重々しく同意した。
「その通りじゃ。ぼくの女神だとか言っておるがの、何処から見ても惚れ込んだとしか思えんわい」
「地球にだろう? ソルジャーの憧れの星を抱く女神だ」
あのような神秘の力は並みの者には持ち得ない、と至極真面目に返すハーレイにゼルが苦笑する。
「相変わらずの堅物じゃのう。それじゃから未だに恋人の一人も出来んのじゃ」
「まったくだよ。…分からないかねえ、ブルーが恋をしてるってことも」
ちょいと次元が違うけどね、とブラウが軽く片目を瞑る。
「色恋沙汰ってヤツとブルーは無縁さ、そういう世界に住んでるヤツだ。それでも見付けちまったんだよ、運命の相手というヤツを」
「…あのフィシスが?」
そうなのか、と驚くハーレイの姿にブラウとゼルが大きな溜息を吐き出した。
「ホントに気付いていなかったのかい…。まあ、お嬢ちゃんが育った所で進展することは無いんだけどね。おままごとの夫婦ごっこがせいぜいさ」
「うむ。…幸か不幸か、ブルーには欠落しておるからのう。その手の感情というものが」
あったらあったで大変じゃったろうが、というゼルの言葉は決して大袈裟なものではなかった。
ブルーはミュウを束ね導くソルジャーであり、ただ一人だけの戦える者。
それに加えて人並み外れた美しい容姿を持っているとなれば周りのミュウたちが放っておかない。しかしブルーは女性にも、ましてや男性にも一切の興味を示さず、誰もを等しく愛し続けた。かけがえのない仲間、同じシャングリラに住む家族として。
そんなブルーが幼く小さな少女に恋をし、女神と呼んで慈しんでいる。
それは喜ぶべきことであったが、アルタミラからの長い長い時を共に過ごしてきた者たちからすれば、些か寂しい気持ちが芽生えてくるのも仕方なく無理のないことで…。
「来る日も来る日も、フィシス、フィシス、フィシス。…あたしたちの所に顔を見せても、口を開けば惚気話だ。ちょいと苛めたくならないかい?」
年甲斐もなく恋に夢中になってるブルーを、とブラウがオッドアイの瞳を煌めかせた。
「あの年の差を考えてごらんよ、ロリコンだなんてレベルじゃないよ? そういう恋じゃないと分かっていてもさ、あてられっ放しの長老としちゃあ一矢報いたくなるってもんだよ」
「何をするんじゃ? そう簡単にブルーはやられはせんぞ」
わしは命が惜しいんじゃが、と逃げ腰になるゼルの耳にブラウはコソコソと耳打ちをする。聞き終えたゼルは「いけそうじゃの」と髭を引っ張った。
「ハーレイ、早速作戦会議じゃ。ヒルマンとエラの協力が必要じゃでな」
「な、何をする気だ、ブラウ、ゼル! ソルジャーに万一のことがあっては…」
「なーにがソルジャーじゃ、恋にかけては若造じゃ! しかし年寄りには違いないでな」
その方面から攻めるまでじゃ、と勢いづいたゼルと発案者のブラウの二人がかりの攻撃の前にハーレイは白旗を揚げる羽目になった。ややあって呼び出しを受けたヒルマンとエラが休憩室に現れ、計画が練り上げられてゆく。
ハーレイもいつしか乗り気になってしまっていたのは、やはりブルーが長老と呼ばれる自分たちよりもフィシスを選んで行ってしまったからだろう。
ブルーが自分の心と感情に素直になったことは喜ばしくても、寂しさは生まれるものなのだ…。
その翌朝。
ブルーが訪ねて来るよりも早い時間に、フィシスはヒルマンとエラの訪問を受けた。
「…いいかね、フィシス。これは大切なことなのだよ」
よく聞いて理解してくれないと、とヒルマンが真摯な瞳を向ける。
「ブルーが見た目どおりの年でないことは知っているね?」
「……??? はい…」
それで? と首を傾げるフィシスにエラが応じた。
「私たちミュウは、ソルジャーの御健康に気を配らねばなりません。ソルジャーは毎日、この部屋においでになるようですが…。その度に紅茶をお出していますね?」
「はい。…アルフレートが用意してくれます」
「……やっぱり……」
私たちが心配したとおりでした、とエラは額に手をやった。
「ソルジャーは紅茶がお好きですから、アルフレートの選択は間違っていません。けれど…」
「砂糖の量が問題なのじゃよ」
紅茶一杯にスプーンに一杯半じゃろう、とヒルマンが続け、フィシスが「はい」と答える。
「…それがいけない。年寄りが甘いものを摂取し過ぎると病気になるのだ。ソルジャーにしても、そこは変わらない。ブルーの健康を考えるのなら、砂糖はスプーン半分にしなさい」
「…えっ…」
でも、とフィシスは口ごもった。
ブルーの好みの砂糖の量は紅茶一杯にスプーン一杯半。なのにスプーンに半分だなんて、それでは甘さが足りなさすぎる。
「いいですか、フィシス。ソルジャーの御健康が第一なのです」
どうしても一杯半を入れたいのなら、紅茶は三度の御訪問につき一度だけにしておくことです、とエラが厳しい口調で告げた。
「ですが、ソルジャーにお茶を出さないというのも失礼なこと。…お砂糖はスプーン半分にしておきなさい」
「そうだよ、フィシス。…これはブルーの健康のためなのだからね」
ブルーに長生きして欲しかったら今日から言い付けを守りなさい、とヒルマンに肩に両手を置かれて、フィシスはコクリと頷いた。
全てはブルーの健康のため。紅茶一杯にスプーン半分の砂糖、砂糖はスプーンに半分だけ…。
そんなこととも知らないブルーは、いつものようにフィシスの許を訪ねた。小さな手を握って青い地球を眺め、堪能した後に休憩を兼ねて一杯の紅茶。
まだティーポットを上手く扱えないフィシスの代わりにアルフレートが二人分の紅茶を恭しく注ぐと、一礼して退出していった。
ここから先はフィシスの役目。シュガーポットを開け、添えられたスプーンで砂糖を掬って…。
「どうぞ、ブルー」
幼い手つきで差し出されたカップに、ブルーは赤い瞳を見開いた。
「…フィシス? 砂糖が足りないようなんだけど…」
「……あの……。お砂糖の摂りすぎは良くないって……」
だからスプーンに半分なの、とフィシスは盲いた瞳でブルーを見上げて懸命な口調で訴えた。
「…ブルーはお年寄りだから……。甘いものを食べ過ぎたら病気になるから、いつまでも元気でいて欲しかったら半分にしなくちゃいけないの!」
美味しくないかもしれないけれど我慢して、という健気な主張に、ブルーは「分かったよ」と降参の印に軽く両手を上げ、渡された紅茶を口に含んだ。
甘みの足りない、香りだけは高いその味わいに違和感を覚えつつ、それをフィシスには悟られないよう柔らかく笑む。
「美味しいよ、フィシス。…健康にいい紅茶というのも嬉しいものだね、ありがとう」
「本当? 本当に美味しくなかったりしない?」
甘くないのに、と心配そうなフィシスに「大丈夫」とブルーは重ねて微笑んだ。
「君と一緒に飲めるだけでも何倍も美味しいものなんだよ。それにぼくの身体のことを考えてくれた紅茶となったら不味いなんてことがある筈もない」
本当に美味しくて素晴らしいよ、とフィシスの不安を消してやりながら、ブルーは彼女の心にそっと思念を滑り込ませる。スプーンに半分だの、年寄りだのと吹き込んだのは誰だろう? ブラウか、はたまたゼルあたりか。…いずれにしても、やってくれたものだ……。
幼くて純真なフィシスは長老たちの悪戯を真に受け、それから長いことブルーの紅茶に入れる砂糖を減らし続けた。ブルーの苦情を聞かされた長老たちは笑うばかりで訂正をしに行ってはくれず、ブルー自身も真剣な表情で砂糖を入れるフィシスにはどうも真実を告げにくい。
「…フィシス。今日はもう少しだけ、砂糖をおまけしてくれないかな?」
長老たちには内緒で半分だけ、と懇願すれば「いけません!」と即座に答えが返る。
「半分も入れたらスプーンに一杯分になってしまうわ。それじゃ多いの」
多すぎるの、とフィシスは一所懸命だ。
「ブルーの身体に悪いのよ? だから絶対、半分だけなの!」
美味しくないならお紅茶の量を三分の一に減らすとか…、とブルーの好みと健康のバランスを取るべく小さな頭を悩ませるフィシスの姿も、また可愛い。
本当はスプーン半分どころか二杯入れても身体には全く問題無いのだが、こんな時間も悪くはないか、とブルーは甘さの足りなさすぎる紅茶を口に含んだ。
この埋め合わせは後で、休憩室で。長老たちの誰が居るかは分からないけれど、居合わせた誰かにうんとたっぷり文句を言って自分のために紅茶を淹れさせよう。
砂糖は勿論、スプーンにたっぷり一杯と半分。
捕まえたのがゼルかヒルマンだったら秘蔵のブランデーを出させて少し落として飲むのもいいな、などと考えながら味わう唇に自然と笑みが浮かぶ。
「ブルー、今日のは美味しいの?」
顔を輝かせるフィシスに「美味しいよ。フィシスがぼくを思ってくれる気持ちがたっぷり入っているから」と言えば、それは嬉しそうに笑みが弾けた。
可愛い、可愛い、ぼくの女神。
君が喜んでくれるのだったら、いつでも紅茶を飲みに来よう。
たとえ一生、甘さが足りない紅茶であっても、君さえいれば其処が最高のティールームだから…。
「…ブルー? お茶のお代わりは如何ですか?」
美しい女神へと成長を遂げたフィシスが白くしなやかな手をティーポットに伸ばす。
「ありがとう。頂くよ」
白磁のカップに注がれた紅茶は濃くなっていて、フィシスは熱いお湯を入れたポットを手に取り、ブルーの好みの濃さに薄めた。
長い年月を共に生きる内にそんな所までフィシスは把握し、幼かった頃には持てなかったティーポットをも優雅に扱えるようになっていて。
「お砂糖はいつもどおりですわね?」
「ああ。…でも、たまには昔の味もいいかな」
スプーン半分でお願いするよ、と懐かしそうな目をしたブルーにフィシスは鈴を転がすような声で笑った。
「まあ、やっぱり…! 酷いわ、読んでいらしたのですね、私の心を」
「そうじゃない。そうじゃないけれど、分かるものだよ」
どれだけの間、君と一緒にお茶を飲んできたと思っているんだい、とブルーも笑う。
フィシスの手がシュガーポットを開けた。
添えられたスプーンで砂糖を半分、きっちり計ってブルーのカップにサラサラと落とす。
「…どうぞ。お身体にいい紅茶ですわ」
「そうだったね。…甘い物の摂り過ぎは厳禁、健康で長生きをしなくてはね」
君と一緒に青い地球をこの目で見るためにも…、とブルーはカップを掲げてみせた。
「フィシス、青い地球を抱くぼくの女神。君の抱く地球に……。乾杯」
君も、と促されてフィシスも自分のカップを手にする。
白磁のカップがカチン、と微かな音を立てて触れ合い、持ち主の唇へと運ばれた。
地球は遠い。
まだ遠いけれど、いつか二人で青い地球を見ながら、こんな幸せなひと時を………きっと。
スプーンに一杯半・了
※ハレブル転生ネタを始めるよりも前に書いたブルフィシ。
何処にも出さずに仕舞っていたというのがね…。
チョダブラムとはシェルパ語で『女神の首飾り』という意味である。
神々が住むと伝わるヒマラヤの高峰の多くは今もシェルパ語の名で呼ばれている。
夏でも消えぬ雪を頂き、蒼天に聳える白き神の座。
これは神たちの物語………。
++++++++++++++++++++++++
「行ってらっしゃい」
それが別れの言葉だった。
「帰って来たら、また君の抱く地球を見せてくれ」
すぐに戻るよ、とあの人は言った。微笑んで私を抱き締めてくれた。頷き返して、シャトルに乗り込んでゆく背を、紫のマントを見送った。
盲いたこの目は開かないけれど、心の瞳で見る事は出来る。だから信じて送り出せた。
あの人は約束を違えない。
すぐに、ナスカに残っている仲間たちを説得したら必ずすぐに戻って来る。
そうしたら二人で地球を見ましょう。
今や忌まわしい星となってしまった私が名付けた赤い星……ナスカの代わりに、私の地球を。
托された補聴器が不安を掻き立てたけれど、フィシスはブルーを信じていられた。
遠い昔にユニバーサルから自分を救い出してくれたミュウの長。
あの日から「ぼくの女神」と優しく暖かい声音で呼ばれ、ただ大切に愛しまれてきた。
シャングリラに住むミュウたちは皆、揃いの制服を身に着けるのに、自分だけは柔らかく上質な布で仕立てた優美な衣装を与えられた。
ブルーのマントの色にほんの少し赤味を加えたような、桃色とも藤色ともつかぬ色合い。
仲間たちのために立ち働くにはおよそ不向きな長い引き裾と袖を持ったそれに、フィシスは戸惑ったものだけれども。
「君は女神だ。ぼくの、ミュウたちの大切な女神。それだけが君の役目なんだよ。それに…」
その服は君にとても似合う、と柔らかな笑みを浮かべたブルーに逆らう気持ちは起こらなかった。ブルーがそれを望むのならば、そのように。
他のミュウたちのように何らかの役割を担うでもなく、日々、テーブルの上のカードをめくって時を費やし、カードが指し示すさして変わり映えのしない未来に溜息をつくだけの生であっても…。
ブルーはフィシスが持って生まれた地球の映像をこよなく愛した。
それがゆえに自分を救ったのかと時折錯覚を覚えるほどに、ブルーは青い地球を求めた。
「地球を抱く女神」、「ぼくの女神」と。
タロットカードを繰り、ブルーが望む時に手と手を絡めて青い地球を見せる。それがフィシスの唯一の役目。
いつしか占いは神格化され、託宣と呼ばれて誰もが伺いを立てるようになっていった。
そして、ブルーと釣り合いの取れる外見で止めてしまった自分の時がどれほど長いかを物語る背丈よりも長く伸びた髪。床に届いてなお余りある金色の髪もまた、特別である証であった。
こんな髪ではいざという時に役に立てない、と訴えた時は踝まで届きそうであったのだけれど、ブルーは首をゆっくりと左右に振った。
「いけないよ、フィシス。…髪には力が宿ると言うから」
どうかそのままに、と穏やかに諭され、結い上げることすら叶わないまま金色の糸は伸びてゆく。前髪だけは切る事を許されていたが、それはブルーに出会った時から切り揃えられていたからだろう。
何もかもが「特別」なミュウたちの女神。
しかし、その前にフィシスはブルーだけの……ブルーだけが親しく触れる事が出来る、ブルーのための女神だったのだ。
ソルジャーと呼ばれ、仲間たちを救い導くミュウの長、ブルー。
皆に慕われ、シャングリラをその手で守り続ける、生ける神にも等しい存在。
攻撃的なサイオンを持つタイプ・ブルーはブルーしかおらず、戦える者もまた彼一人のみ。
それがどれほどの孤独を彼に齎すか、思い至る者は誰もいなかった。
ブルーはミュウたちを導き護るけれども、ブルーを導く手はこの世には無い。
孤高の戦士が自らの標に、心の支えにと焦がれた星が母なる地球。
その地球の鮮やかな映像を身の内に抱くフィシスに惹かれ、女神と呼んで慈しんだのは自然な流れであると同時に必然だった。
ブルーが神ならば、彼が敬い慈しむ者も、また神となる。
そうしてフィシスは女神になった。
シャングリラを守る銀の男神と、金の髪を持つ神秘の占い師、麗しき女神。
二人は生まれ落ちた時からの対であったかのように、互いに互いを求め続けた。
男女の仲などというものではない。
結ばれているものは互いの心で、その肉体はただの器にすぎない。
手を絡め、抱き合うことはあっても、それよりも先には進まなかった。
恋人でもなく、伴侶でもなく、文字や言葉ではとても表せない絆。
それが在ったから、フィシスは信じた。
ブルーは必ず戻って来ると。
「ブルー…。生きて戻って…。信じています」
ナスカに向かった筈のブルーが戦いの場へと赴いたことに気付いたフィシスは祈り続けた。
ブルーに托された補聴器を握り、ただひたすらに自らの半身が無事に戻ることを。
……それなのにブルーは戻らなかった。
フィシスを残して、ミュウたちを残して逝ってしまった。
一人でも多くのミュウを救うために、ミュウの未来を切り拓くためにその身を贄としてしまった。
二度と還らぬ人の形見がフィシスの手の中に残されたけれど。
愛した人の思い出として、秘めてしまっても良かったのだけれど。
「…ソルジャー・シン。これはきっと……ブルーがあなたに遺したものです」
ブルーがいなくなってしまった青の間にソルジャー・シンを呼び、フィシスはそれを手渡した。
いつもあの人と共に在った補聴器。
あの人が最後に渡してくれた大切な形見。
出来るならば持っていたかったけれど、ブルーはそれを望まない。
ミュウたちのために戦い、散ったブルーが見ていたものはミュウたちの未来。そこへと皆を導くためにはソルジャー・シンが、彼を導くにはブルーの三世紀に渡る記憶が必要とされるであろうから。
……ブルー、あなたが望むのならば。
わたくしもそれに従いましょう。
あなたの記憶は欲しかったけれど、全てはあなたの心のままに……。
ブルーの補聴器を引き継いだソルジャー・シンは人類との戦いを決意する。地球のシステムを末端から一つずつ破壊するべくアルテメシアへと進路を定めたシャングリラ。
フィシスの占いに頼ることなく、ソルジャー・シンがそう決めた。
これから先のミュウの未来に自分は必要ではないかもしれない。
占いしか出来ず、幻に過ぎない地球を抱くだけの女神など誰も顧みなくなる日が来るかもしれない。
それも仕方のないことなのだ、とフィシスは思う。
誰よりも自分を求めてくれた銀色の神は、翼を広げて永遠の彼方へと飛び去って行った。
いつか彼を追ってこの世から旅立つ時が来るまで、対となる者は居はしない。
二人で一人とまで想い慕った神が居ないなら、女神も要らない。
そう、いつの日にかブルーの許へと……その傍らに逝く日だけを思い、生きてゆくしかないのだろう。
この胸が鼓動を止めてはくれず、この息が絶えてくれぬのならば…。
残されたフィシスを慰めてくれるブルーの記憶はソルジャー・シンに渡してしまった。
最後に抱き締められた温もりと、耳に残る声だけを頼りに長い時を一人、生きられはしない。
けれど……。
私にはまだ望みがあるから、とフィシスは自分の部屋へ向かった。
天体の間の奥深く設えられた、他のミュウたちとは比べ物にならぬ広すぎる居室。
この部屋を与えられた時もまた、フィシスは「私にはあまりにも過ぎたものです」と言ったのだけれど。ブルーは否を言わせなかった。
「この部屋はぼくも使うから。…二人なら広すぎはしないだろう?」と。
その言葉どおり、ブルーは幾度も訪ねて来たし、時にはフィシスの膝を枕にうたた寝することもあったほど。
青の間はブルーの私室とはいえ、シャングリラの守りの要でもあった。戦士が、ソルジャーが死守する最後の砦。寝台に横たわって休む時でさえ、ブルーはそれを意識せずにはいられない。
そんなブルーが心から安らげる場所としてフィシスが暮らす部屋を選んだ。
フィシスの部屋はフィシス一人のものではなくて、ブルーの居場所でもあったのだ。
「……ブルー……」
喪ってしまった人の名を呼び、フィシスは二人で長い時間を過ごした部屋の奥へと向かう。
そこには見事な彫刻を施した化粧台が据えられ、鏡に自分の姿が映った。
ブルーのマントと見紛う色の衣装が今は限りなく悲しいけれども、それも慣れるしかないだろう。
そのためにも…、と伸ばした手が銀のブラシを掴んだ。
シャングリラに来てから朝晩、長い髪を毎日梳かし続けた、ブルーに貰ったヘアブラシ。繊細な銀細工のそれには希少な動物の毛が植え込まれている。
「君は大切な女神だから。…それに相応しいものをと思ったんだよ、ぼくのフィシス」
これは本物の猪の毛を使ったヘアブラシなのだ、とブルーは言った。
「髪を傷めない素材だそうだ。ずっと昔から高価なもので、今では殆ど手に入らない」
君のために手に入れてきたんだよ、と渡された時の手の温もりをフィシスは今でも覚えている。そんな高価なものを何処から、と訊いてもブルーは微笑んだだけで答えなかった。
「…ブルー……。あなたは此処にいますか…?」
フィシスは白い指先でヘアブラシを探り、盲いた瞳で覗き込んだ。
植えられた黒い毛に絡んだ金色の糸。いつもなら髪を梳かし終える度に捨てるのだけれど、この数日間、嫌な胸騒ぎに囚われていたために放ったままになっていた。
だから、もしかしたら、この中に……。
「………ブルー………」
フィシスの閉じた瞳から大粒の涙が零れ落ちた。金色に輝く長い糸に混じって、ひっそりと控えめな光を放つ銀色の糸が幾筋か。
それは逝ってしまったブルーが遺したフィシスへの形見。
「行ってくるよ」と抱き締めてくれた時、頬に触れたブルーの銀糸そのままの銀色の髪。
「……ブルー……。居てくれたのですね……」
あなたは此処に、と銀の髪を絡ませたヘアブラシを胸に抱いてフィシスは床にくずおれる。とめどなく頬を伝う涙を拭おうともせず、亡き人の形見をかき抱きながらその名をいつまでも呼び続ける。
ほんの数本の髪であっても、ブルーの形見があるならば。
ブルー、あなたが此処に居てくれるのならば、私は生きてゆけるでしょう……。
フィシスの部屋を訪れたブルーが眠ってしまうことは度々で。
そんな時、目覚めたブルーの癖のある銀糸が好き勝手な方へとはねていることもよくあった。
「…すまない、フィシス。ぼくはどのくらい眠っていた?」
「ほんの少しの間ですわ。それよりも、ブルー…」
髪が、と答えるフィシスの声で鏡を眺めたブルーは困ったように笑ったものだ。
「この姿は皆には見せられないな…」
「本当ですわね」
あなたとは誰も気付かないかもしれませんわ、と冗談めかした口調で応じて、フィシスはブルーの髪を直した。ブルーが自分にとくれたブラシで、丁寧に気を付けて梳りながら。
そう、ついこの間もそうだった。
十五年ぶりに目覚めたブルーと一緒に天体の間からこの部屋に戻り、避けようのない不幸が訪れる予感に怯える自分に向かってブルーが何度も「大丈夫だよ」と…。
「ぼくがみんなを守るから」と…。
心を覆い尽くしそうな不安を拭い去るように幾度も繰り返してくれたブルーは「少しだけ眠る」とフィシスに告げると、その膝に頭を預けて眠りに落ちた。
少しと言いつつ一時間は眠っていただろう。はねてしまった髪をフィシスが梳かし、ブラシをそのまま化粧台に置いた。
その時にブラシに絡まった銀糸の密やかな光に、今もブルーの面影が宿る。
ブルーは形見を遺してくれた。独り残された女神の手許に、自らが生きた命の証を……。
愚かだった自分の過ちのせいで喪ってしまった大切な人。
二度と還らぬ人を想って涙し、泣いて泣き崩れて暮らしていてもブルーは永遠に戻っては来ない。
形見になった銀色の髪も、箱に仕舞って眺めるだけではいつ失くすかも分からない。
フィシスは忠実な従者を呼んだ。
「アルフレート」、と。
この船に迎えられた時から彼女に仕え、側に控えて竪琴を奏で続けて来た無口な男。
彼ならば誰よりも信用出来る。
「…これはブルーが遺した髪です。これを……」
この石の裏側に入れたいのです、とフィシスはブルーに贈られた首飾りを細い頸から外した。
全てのミュウが身に付けている赤い宝石。
フィシスの首飾りは誰のものよりも華やかであり、彼女が特別な存在であると知らしめるためには充分なもの。その中央に据えられた石をフィシスはアルフレートに示した。
「この裏に入れて貰えませんか? 私がいつもブルーと一緒に居られるように」
盲いた瞳から涙が落ちる。
従者は預けられた箱と首飾りを捧げるように持ち、静かに退室していった。
アルフレートはフィシスのために懸命に奔走したのだろう。首飾りがフィシスの頸から消えていた時間はたった半日。その日の夜には望み通りの細工を施され、フィシスの許へと戻って来た。
「……ブルー……。これであなたと共に居られます…」
首飾りを裏返し、フィシスは宝石の裏を指先で愛しげに撫でる。
赤い宝石の上に銀色の髪が綺麗な曲線を描いて載せられ、水晶の板で覆われていた。首飾りを外せばブルーの形見が目に入るように。付けた時にはフィシスの頸に優しく触れて添うように…。
化粧台の前に座って首飾りをそっと頸へと回す。
カチリ、と微かな金属音を立てて留め金が嵌まり、赤い石が頸に輝いた。
この石はブルーが遠い昔にくれたもの。そして今は、この石と共にブルーが居る。
命ある限り、ブルーが遺した形見と共に。
その中に今も宿り続けるブルーの魂の欠片と共に……。
「……行きましょう、ブルー」
フィシスは見えない瞳でシャングリラの上に広がる宇宙(そら)を仰いだ。
この果てしない星の海の彼方に青く輝く水の星が在る。
ブルーが焦がれ、行きたいと願った母なる地球。
自分はそこへ行かねばならぬ。
女神と呼んでくれたブルーの夢を、切なる願いを叶えるために。
この手で何が出来るわけでもないのだけれど…。
ただシャングリラに運命を委ねるしかない身だけれども、ブルー、私は地球へゆきます。
あなたが此処に居てくれるから、私はあなたと共にゆきます…。
この石は忌まわしいナスカの色。…けれど、ブルー、あなたの優しい瞳の色を映した赤。
そこから見守っていて下さい。
青い、何処までも青いあの地球の青を、あなたに見せられるその日まで。
その時が来ても、ブルー…
どうか、私から離れてゆかないで。
私があなたの許へと飛び立てる日まで、私の側から離れないで…。
ブルー、あなたが私の地球。
私の魂が還り着く場所。
いつか二人で地球を見ましょう。
そうしたら………ブルー、あなたは私を迎えに来てくれますか?
こんな小さな石ではなくて、あの日、別れたままの姿で…。
「すぐに戻るよ」
「行ってらっしゃい」
「帰って来たら、また君の抱く地球を見せてくれ」
「……はい」
見えますか、ブルー………私の抱く地球が…?
本物の地球に辿り着くまでは、これで我慢していて下さいね…。
行きましょう、ブルー。
あなたが焦がれた青い水の星へ………。
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シャングリラの語源はチベット語で『シャンの山の峠』の意とされる。
シェルパ語はチベット語の方言の一つであり、高地民族シェルパ族が話す言語である。
なお、チョダブラムの名を持つ高峰は実在しない。
現在14座ある八千メートル峰の幻の15座目。
その峰が遠き未来に男神と女神が青き地球で住まう白き座、チョダブラムとなる。
神々の峰に、けして近付くことなかれ………。
チョダブラム ~女神の首飾り~ ・了
※チョダブラムってシェルパ語は嘘ついてないです、お勉強はしてないですけど。
ちょーっと山岳を齧っただけです、アマダブラムとチョオユーって山があります。
アマダブラムは「母の首飾り」、チョオユーは「トルコ石の女神」。
管理人的にはチョダブラムのモデルはアマダブラムです、双耳峰なんですよ。
筑波山みたいに頂が二つあるのが双耳峰。
アマダブラムを見てみたい方は、こちらをクリック→アマダブラム
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