(…嘘だ…)
どうしてこんなことに、とシロエが呆然と見詰めるもの。
膝の上に一冊、大切なピーターパンの本。幼かった頃に両親がくれた宝物だけれど。
今もこうして持っているけれど、問題は…。
(…パパもママも…)
ぼくの家も、と眺めた暗い窓の外。漆黒の宇宙。瞬かない星が散らばるだけの。
強化ガラスの窓に映った自分の顔。気付けば宇宙船の中。
故郷の星は何処へ行ったのか、アルテメシアをいつ離れたのか。自分が育ったエネルゲイアも、後にしたという記憶が無い。
気付けば船の中にいただけ。他の子供たちと一緒に座って、運ばれる途中だっただけ。
ピーターパンの本だけを持って。…他には何も持たないままで。
(…ぼくの記憶…)
忘れなさい、と命じた機械。「捨てなさい」と冷たく言い放った機械。
テラズ・ナンバー・ファイブと名乗った異形のコンピューター。
それが何もかも奪ってしまった、大切なものを。
目覚めの日までの人生の全て、子供時代の何もかもを。
(思い出せないよ…)
何度試みても、何度挑んでも。
掴もうと何度探ってみたって、まるで取り戻せない沢山の記憶。
大好きだった両親の顔も、育った家も。
自分の家が何処にあったか、そんな基本のことでさえも。
何もかも全部奪われたんだ、と見詰めるピーターパンの本。
「ぼくにはこれしか残らなかった」と、「全部失くした」と。
ぱらりとページをめくってみたって、戻っては来ない失くした記憶。
機械が奪ってしまった記憶。
(二つ目の角を右に曲がって…)
後は朝までずうっと真っ直ぐ、そうすれば行けるネバーランド。
行き方は本に書いてあるけれど、自分の家への帰り方は何処にも載っていなくて。
(…パパ、ママ…)
家に帰りたいよ、と零れそうな涙を指で拭ったら。
「食事ですよ」
何にしますか、と笑顔で覗き込まれた。
船の乗員らしい女性に、制服を着た若い一人に。
肉料理がいいか、魚料理にするか。それとも肉や魚は抜きか。
「えっと…」
今はそういう場合では、と途惑いながら顔を上げたら、微笑んだ女性。
「あらまあ…。ピーターパンの本ね、昔、読んだわ」
にこやかに語り掛けられた。
成人検査を終えたばかりで不安だろうと、けれども、誰でもそんなものだと。
そして親切に見せて貰えた、「特別よ?」と。
肉料理はこれで、魚料理はこれ。肉も魚も抜きの食事はこれになるの、と。
「どれでもいいわよ」と言って貰えたから、「これ…」と指差したトレイの一つ。
女性はテーブルをセットしてくれて、「どうぞ」とトレイを上に乗せてくれた。
「本を汚さないように気を付けてね」と、「はい」と膝の上にナプキンだって。
とても優しくしてくれた女性。
「船にいる間は何でも言ってね」と、「困った時には呼んで頂戴」と。
ホッと一息つけた瞬間。
優しい人だって乗っているのだと、誰もが悪人ばかりではないと。
悪いのは機械、記憶を奪った憎らしいテラズ・ナンバー・ファイブ。
けれど…。
(…E-1077…)
この宇宙船が向かってゆく先。エリートを育てる最高学府。
其処に着いたら、何もかもが変わってしまうのだろう。
さっきの優しかった女性は、ただの客船の乗務員。エリートなどではない人種。
(…そんな人だから、優しいんだ…)
足の引っ張り合いなどは無いし、トップ争いをする世界でもない。
失くしてしまった父や母がいた、あの懐かしい故郷と同じ。穏やかに時が流れる世界。
(…船を降りたら…)
きっと全く違う世界があるのだろう。
両親や故郷の記憶さえをも、消し去ってまでも馴染むべき世界。
毎日がエリート同士の戦い、ライバル同士で蹴り落としたり、引き摺り落としたり。
(……嫌だ……)
そんな所には行きたくないよ、と思うけれども、決められた進路。
機械が勝手に決めてしまって、もう引き返せはしない道。
どんなに嫌だと泣き叫んだって、この船で泣いて暴れてみたって。
(…ネバーランドに行きたかったのに…)
ネバーランドよりも素敵な地球へ、と今も覚えている自分の夢。
それはすっかり狂ってしまって、気付けば独り、宇宙船の中。
他に乗っている子供たちも皆、ぼんやりとした様子だけれど。
言葉も交わさず、黙々と食事の最中だけれど…。
(…みんな、ライバル…)
この船がステーションに着いたら。
E-1077に着いて降りたら、誰もがライバル。
其処はそういう場所だから。エリートのための教育ステーションだから。
エリートになるより、あのまま故郷に、エネルゲイアにいたかった。
父と母のいる家でずっと過ごして、いつかはネバーランドへも。
(ぼくの本…)
この本だけは持って来られた、とピーターパンの本を抱き締めたけれど。
食事の途中で抱き締めていたら、さっきの女性が通路を通って行ったけれども。
「とても大切な本なのね?」と、「汚さないように気を付けてね」と。
優しい言葉に「うん!」と大きく頷いたけれど、考えてみれば。
(…E-1077…)
エリートが足を引っ張り合う場所、そんな所でピーターパンの本を大事にしていたら。
大切に抱えて持っていたなら、いったい何を言われることか。
(きっと、馬鹿にされて…)
この本をくれた両親のことも、嘲笑われるに違いない。
「そんなの、子供が読む本なんだぜ」と、「見ろよ、こんなの持ってやがる」と。
甘やかされて育ったんだと、だから子供の本なんか、と。
とてもエリートに見えはしないと、こんな子供を育てた親も愚かな親に違いない、と。
(ぼくのパパは…)
凄いパパだったのに、と思うけれども、思い出せない父の職業。
研究者だったか、技術者だったか、その区別さえも。
優しかった母も思い出せない、顔立ちも、瞳の色でさえも。
(…パパ、ママ…)
ぼくは怖い所に連れて行かれる、と抱き締めたピーターパンの本。
優しい人なんか誰もいなくて、怖い人ばかりに違いないよ、と。
友達だって出来はしなくて、誰もかも、皆、ライバルばかり。
何かと言ったら競い合いで喧嘩、そんな所に行かされるんだ、と。
(…どうしたらいいの?)
怖いよ、と唇を噛んでみたって、降りることは出来ない宇宙船。
エネルゲイアに帰れはしなくて、船の乗務員の優しい女性ともお別れで…。
記憶を失くしてしまったことも悲しいけれども、これから先の自分の運命。
それが怖くてたまらない。
きっと自分は上手くやってはゆけないから。
父と母が大好きで、ピーターパンの本が宝物の子は、苛められて酷い目に遭うだろうから。
「お前なんか」と、「なんだよ、まるで子供じゃねえか」と。
「パパとママの家に帰ったら?」だとか、「子供はとっくに寝る時間だぜ?」だとか。
帰れるものなら帰りたいのに。
両親の家に帰りたいのに、子供のままでいたかったのに。
(だけど、ステーションじゃ…)
そんな子供は苛められる、と本を抱き締める間に、「食事はいいの?」と尋ねられた。
「殆ど食べていないわよ?」と、さっきの女性に。
「…大丈夫…。ぼく、あんまり…」
食べたい気分にならないから、と彼女に返した食事のトレイ。
暫く経ったら、籠を手にして来てくれた女性。
「ほら、キャンディー」と、「後でお腹が空くだろうから、好きなだけ取って」と。
その優しさがとても嬉しくて、「ありがとう!」と沢山貰ったキャンディー。
ストロベリーやら、レモン味やら、他にも色々。
包み紙を剥がして、一つ口に入れて。
(…あの人とだって、じきにお別れ…)
そしてとっても怖い所へ、と震わせた肩。
父と母が好きな子供は苛められる世界、ピーターパンの本が馬鹿にされる世界。
其処へ自分は連れてゆかれると、どうすれば生きてゆけるのかと。
(パパもママもいなくて…)
ピーターパンの本も、持っているだけで馬鹿にされて…、と震える間に閃いたこと。
馬鹿にされるなら、そうならなければいいのだと。
揚げ足を取られなければいいと、自分が隙さえ見せなければ、と。
(…攻撃は最大の防御だっけ…?)
そういう言葉を何処で聞いたか、あるいは本で読んだのだろうか。
とにかく先に攻撃すること、それが自分を守ることになる。
E-1077が怖い場所なら、自分から打って出ればいい。
誰も自分を襲えないよう、自分が強くなればいい。
(…ぼくの中身は弱いままでも…)
父と母が好きで、ピーターパンの本が宝物でも、それがバレなければオールオッケー。
噛み付かれる前にガブリと噛んだら、蹴られる前に蹴り飛ばしたら。
(…そういうヤツだ、って思われたなら…)
誰も自分に寄って来ないし、バレるリスクが低くなる筈。
話し掛けようとする者が減ったら、減った分だけ。
会話の数が減っていったら、その分だけ。
(…嫌がられるヤツになればいいんだ…)
何かといったら皮肉ばかりで、憎まれ口を叩くキャラ。
そういう自分を作り上げたら、誰も近付いては来ない筈。
ピーターパンの本を持っていたって、指摘されたら、「ああ、これ?」とフンと鼻で嗤って。
「ちょっとした事故で、ぼくの持ち物になっちゃってさ」と、「捨てるのもね?」と。
「ゴミに出すより、持っていたならプレミアがつくかもしれないから」と。
いつか高値がついた時には、売り飛ばして儲けるんだから、と。
(君たちには真似が出来ないだろ、って…)
持っていない物は売れないもんね、と唇に浮かべた微かな笑み。
嫌な人間になってやろうと、攻撃は最大の防御だから、と。
(…この船を降りたら…)
とても嫌がられる生意気なヤツになってやる、と固めた決意。
ついでに機械にも嫌われてやると、生意気なシロエに手を焼くがいい、と。
かくして出来上がったのが、皮肉屋で嫌味を飛ばしまくりのシロエ。
乗って来た船を降りる時には、例の女性に「ありがとう」と御礼を言っていたのに。
とても素直な子だったのに。
新入生ガイダンスの時にホールにいたのは、とびきり「嫌なヤツ」だった。
「さあ、手を取り合いたまえ。共に地球を構成する仲間たちよ」
そう促したのがガイダンスで流れた映像だったけれども、それに応えて伸ばされた手。
隣の男子が「よろしく」と差し出した手を、「触らないでくれる?」と払いのけたシロエ。
「君の手、なんだか汗っぽいから」と、「気持ち悪いね」と。
それがシロエの第一声。
周りの新入生たちはドン引き、誰も怖くて近寄れなかった。「なんてヤツだ」と。
ガイダンスでそうやってのけたら、後は闇雲に突っ走るだけ。
誰もに憎まれ口を叩いて、皮肉と嫌味をガンガン飛ばして。
(…ぼくに触ると…)
火傷するって覚えておけよ、とシロエのキャラは見事に変わった。
ただし外面、中身は今でも…。
(…パパ、ママ…)
帰りたいよ、と部屋で抱き締める大切なピーターパンの本。
けれども部屋から一歩出たなら嫌味MAX、誰もに喧嘩を売ってばかりの嫌なヤツ。
攻撃は最大の防御だから、と頑張りまくって、嫌われまくり。
それがシロエの狙いなのだし、思い切り成功しているけれど…。
(高校デビュー…)
あれは死語だと思っていたのに、と溜息をつくマザー・イライザ。
ミュウ因子を持つシロエを此処まで連れて来たけれど、まさか高校デビューするとは、と。
もうちょっとばかり苦労するかと、馴染めずに泣きが入ると踏んでいたのに、と。
(…この調子だと…)
いい感じにキースに喧嘩を売りそうだけれど、帳尻は合ってくれそうだけれど。
もう少しばかり弱いキャラかと、まさか自分のキャラを変えるとは、と。
溜息をつくマザー・イライザ、機械にも読めなかったこと。
SD体制の時代に高校デビュー、それを華麗に果たしたシロエ。
高校ではなくて教育ステーションだけれど、最高学府と名高いEー1077だけれど。
それでも果敢に高校デビュー。
キャラを切り替えたシロエは今日も嫌味MAX、同級生に売っている喧嘩。
「君たちなんかと組まされた、ぼくの身にもなってよ」と。
「足を引っ張って欲しくないね」と、寄るな触るなと嫌われ者オーラ全開で…。
反逆のシロエ・了
※子供時代は可愛かったシロエ。どう転がったら、あのクソ生意気なキャラになるやら…。
ふと思い出した言葉が「高校デビュー」、そういうことなら仕方ない、うん。