(…つっ……!)
切ったな、とキースが眺めた自分の指先。
右手の人差し指の先、そこに走った赤く細い線。
たちまちプクリと血が零れ出して、見る間に盛り上がってゆく雫。
(厄介な…)
書類に落ちたら大変なんだ、と執務机の引き出しから拭くための紙を取り出す。
整頓された机の上には、そのような紙は置いていないから。
(……まったく……)
面倒なことだ、と拭い取った血。
傷の手当てをするための箱は、これまた机に置いてはいない。
(昼間だったら、マツカがいるのだがな…)
生憎と今はとうに夜更けで、部屋にマツカの姿は無い。
去る前に淹れていったコーヒー、それが半分残ったカップがあるだけで。
つまりは「部屋には、いない」側近。
「其処の薬箱を取ってくれ」と命じる相手は、何処にもいない。
側近も下がった後の部屋には、セルジュたちのような部下もいないから。
(雑用が増えた、というヤツだ…)
あと少しで終わりだったのにな、と仕方なく椅子から立ち上がった。
書類に血の色の染みなど、残せはしない。
紙で切った傷というのは意外に深くて、放っておいたら、また血が零れる。
他の書類に引っ掛かった時や、何気なく紙をめくったはずみに。
(…それに、手当てをしておかないと…)
指の先の傷は侮れん、と分かってもいる。
利き手は、「何処でも使う」から。
それを承知で、「触れそうな場所」に毒でも塗られていようものなら…。
(……国家騎士団総司令様の、暗殺計画成功だからな)
傷があったら、毒の吸収も早い。
皮膚が覆ってくれていたなら、まだマシだったろう程度の毒でも、死ぬかもしれない。
紙で切れた傷があるだけで。
手当てしないで放置した傷が、文字通りに「キース」の命取りとなって。
執務の中断を余儀なくされた、紙で切った傷。
手当てを終えて、傷の箇所もきちんと覆った後には、薬箱を元の位置に戻して…。
(本当に、残り少しの所で…)
とんだ時間を取られたものだ、とチェックしてゆく書類。
毎日のように山と届けられるのが「書類」なるもの。
いくら技術が進歩していても、重要なデータはアナログの形で出力される。
無駄なようでも、それが一番「失われる」リスクが低いから。
磁気や些細なミスで消えたりしない「もの」だから。
(……現に、シロエの本も残った……)
スウェナの手を経て、「キース」の手許にやって来た本。
かつてシロエが大事にしていた、ピーターパンの物語。
あれが「紙に刷られた本」でなければ、間違いなく消えていただろう。
(紙の本でも、爆発の中で残ったというのが奇跡だが…)
爆風を受けた場所によっては、そういう奇跡も考えられる。
表紙があちこち焦げていた本が、運良く、直撃を免れて。
中に隠されていた「データを収めたチップ」も、紙の本のお蔭で保護されて。
(だが、紙の本でなかったら…)
シロエの船が爆発した時、木っ端微塵に消えていた筈。
船のデータを記録するための、ブラックボックスなどとは違って。
(…紙媒体が一番、強いものだからな…)
遥かな昔に、人類は「それ」を身をもって知った。
大切な記録は「紙」を使って残さねば、と。
それゆえに、今も「書類」がある。
国家騎士団総司令に宛てて、山と刷られる文書の類が。
(新しい紙しか、やって来ないからな…)
さっきのように指先が切れることもある。
新品の紙の端は鋭く、刃物のように皮膚を、肉を切るから。
凶器でさえもない筈の紙に、指先を深く傷付けられて。
思わぬ時間を取られたけれども、終わった執務。
書類の束をトントンと揃え、机の端へ押し遣った。
(すっかり冷めてしまったな…)
いつものことだが、と傾けたカップ。
マツカが淹れて去ったコーヒー、これを飲み干したら、後は寝るだけ。
また明日からの仕事に備えて、今日の疲れを残さないよう。
どんな事態に陥ろうとも、冷静な判断を下せるように。
(……ミュウどもは、どう動くやら……)
アルテメシアが落とされて以来、ミュウの版図は拡大の一途。
たった一隻だった母船も、今は艦隊と称されるほど。
(モビー・ディック以外は、雑魚なのだがな…)
巨大な白い鯨を除けば、さほど脅威でもないだろう。
「彼ら」が艦隊に加えた船は、殆どが人類軍の船。
改造するには時間もかかるし、まだ万全とは言えない筈。
ただし、それらが「完全に」ミュウの船になる前に…。
(…叩いておかんと、どうにもならん)
人類軍が不利になるのだからな、と分かっている。
未だに仕組みが解明できない、モビー・ディックが備えた機能。
(レーダーに全く映らない上、シールドまでも持っているのだ…)
あれほど巨大な船だというのに、モビー・ディックは「目視で」探すしかない。
「彼ら」が「その気」にならない限りは、けして解かれはしないシールド。
ミュウの母船は、ステルスモードで航行するから、何処にいるのか分かりはしない。
「目の前にいる」と気付いた時には、もはや手遅れ。
闇雲にレーザー砲を撃っても、それらは全て…。
(シールドに弾かれてしまうのだからな)
人類軍の船には、そんな装備は無いというのに。
ミュウ艦隊との混戦になれば、同士討ちさえ起こり得るのに。
あの技術が「ミュウ艦隊の全て」に施されたなら、濃くなる敗色。
そうなってからでは遅すぎるのだし、今の間に殲滅せねば。
書類の山が増える一方だろうと、新しい紙に指先を切られる日が増えようとも。
(たかが紙だが…)
こうして私の邪魔をするのだ、と見詰めた指先。
傷は覆ってしまったけれども、その下に確かに刻まれた傷。
書類に染みが出来ては困る、と手当てする前に拭いた、零れ出した血。
(あんな傷でも、放っておいたら命取りになるというのがな…)
時と場合によるのだがな、と苦笑する。
皮膚から吸収されるタイプの猛毒、それが「キース」に使われたことは、一度も無い。
けれど先例が幾つもある上、実は「キースが知らない」だけで…。
(マツカが見付けて、処分している可能性もあるな)
いちいち報告するまでもない、とマツカが守りそうな沈黙。
「キース・アニアンの側近」がミュウとは、誰一人として知らないから。
ミュウだからこそ知り得た事実は、尋ねない限りは「話さない」から。
(…こうして自分で用心をして、更にマツカの助けを借りて…)
今日まで生き延びて来たのだけれども、ふと気になった。
「この命に、価値はあるのか」と。
さっきのように指を切ったら、赤い血が流れ出るけれど…。
(…赤い血なら、ミュウも持っているのだ)
何度、その血を目にしただろう。
自分で殺したミュウも多いし、APDスーツの開発過程でも見た。
APDスーツ、すなわちアンチ・サイオン・デバイススーツ。
それを着ければ、どんな兵士もサイオンが特徴のミュウと互角に戦える。
サイオンが通用しなくなるから、白兵戦に持ち込みさえすれば。
(開発実験で殺した、ミュウどもの血は…)
人工子宮から生まれたとはいえ、「ヒト」が流した血に違いない。
けれども、「キース・アニアン」は違う。
同じに「ヒト」の姿でも。
人類として生きて暮らしてはいても、まるで全く違った「生まれ」。
機械が「無」から作った生命。
三十億もの塩基対を合成した上、繋ぎ合わせてDNAという名の鎖を紡いで。
そうやって「作り出された命」と、「生まれて来た」異分子、ミュウの命と。
いったい、どちらが「重い」のだろう。
同じに赤い血を持っていても、価値があるのは「どちら」なのか。
「生命」というもので比べたら。
命の価値を比較したなら、神が手にするだろう秤は…。
(…私の命の方に傾く代わりに、それこそ名前も無いだろうミュウの命を…)
載せた方へと傾くだろうか、秤にかけた瞬間に。
機械が無から作った命は、神の領域を侵した存在。
そんな命に価値などは無くて、たとえ異分子のミュウであろうと…。
(遥かに重いのかもしれん…)
「命の重さ」というものは。
赤い血を持つ存在同士で比べたとしても、最初から比べる価値さえも無くて。
(……そうかもしれんが、そうなのだとしても……)
この命を守ってゆくしかないな、と零れる溜息。
人類には「キース」が必要だから。
ミュウの脅威から宇宙を守り抜くには、まだ死ぬわけにはいかないから。
全身の血を全て流し尽くしても、ミュウの赤い血の一滴にさえも、及ばなくても。
どれほど「価値の無い命」だとしても、「そのため」に作り出された命。
機械が、それを望んだから。
神の目で見れば価値は無くとも、機械にとっては大切な「機械の申し子」だから…。
生命の価値・了
※キースでも紙で指を切るのですが、その傷から零れた赤い血が問題。ミュウにもある血。
名も無いミュウと、キースの命とでは、いったいどちらが価値を持つのか。