(……また……)
呼ばれたんだ、とシロエは溜息をついた。
何度も此処で眠ったけれども、未だにまるで慣れないベッド。
「どうしましたか?」
「…なんでもありません」
大丈夫です、とプイと顔を背けて、ベッドから下りた。
こんな所に長居などしたくないのだから。
マザー・イライザの顔も姿も、おぞましいとしか思えない。
いくら故郷の母の姿でも、所詮は機械が作る幻影。
これに親しみを覚える者たち、彼らの心が分からない。
「ママにそっくり!」とか、「恋人の姿に似ているんだ」とか、誰もが喜ぶ。
この部屋にコールされた時には、しょげていたって。
「また失点だ」と嘆いていたって、マザー・イライザに会えば笑顔が戻る。
部屋のベッドに横たわる内に、機械が「治療」を施すから。
心に溜まった悩みや怒りを、解いて「平穏」へと導くから。
(……ぼくだって……)
きっと何かで苛立ち、心が乱れたのだろう。
だから呼ばれて「治療」を受けて、たった今、それが終わった所。
もう心には「悩み」など無いし、激しい怒りも残ってはいない。
けれども、それが問題だった。
(……マザー・イライザ……)
またしても機械に弄ばれた、と憎しみの炎が噴き上げる。
機械に心を弄られるなどは、御免なのに。
何処も触って欲しくないのに、マザー・イライザは「それ」を施す。
こうしてコールで呼び出してみては、「眠りなさい」と深く眠らせて。
機械の力で意識を分離し、勝手にあちこち覗いた末に。
「母の姿」にクルリと背を向け、ただ乱暴に歩き始めた。
大理石の像が立つ部屋を突っ切り、扉へと。
扉の向こうの、広い通路へと。
(…もう、こんな時間…)
夜になってる、と腕の時計を覗き込む。
今日の「治療」は、相当に長い時間がかかっていたのだろう。
コールを受けた原因自体は、全く思い出せないけれど。
(……いつものことさ……)
成績不良で呼ばれるわけじゃないんだから、と唇を噛む。
多くの生徒が呼ばれる理由は、成績不良や「講義についてゆけない」こと。
要は「勉強に身が入らない」のを、マザー・イライザが咎めるだけ。
けれど「成績優秀」なのに「呼ばれる」自分の場合は違う。
コールに繋がるのは「素行不良」で、システムにとっては「望ましくない」何か。
SD体制そのものについての、批判だとか。
成人検査を憎み続けて、今も許していないこととか。
(……今日も、その辺だろうけど……)
直接の原因が何だったのかは、どう頑張っても手がかりすらも掴めない。
これが機械のやり方だから。
コールされる度、「大切な何か」を奪われ、消されてゆくのだから。
今日も同じだ、と足音も荒く戻った部屋。
マザー・イライザが何を奪ったか、どんな記憶を消し去ったのか。
そちらの方も気になるけれども、もっと怖いのが「副作用」。
機械がそれを意図しているのか、「副作用」かは不明だけれど。
(……また何か……)
残っていた記憶を消されただろう、という確信。
故郷から抱えて持って来た記憶、辛うじて残っている断片。
コールの度に、欠片が一つ消えてゆく。
酷い時には、二つも三つも無くなったりする。
機械が与える「心の平穏」、それと引き換えに失う記憶。
その「からくり」に気付いた時から、余計に機械を許せなくなった。
E-1077で生きる間は、「コール」に対する拒否権は無い。
無視して部屋にこもっていたなら、職員が引き摺り出しに来る。
まだ、そこまではやっていないのだけれど。
それほど酷く反抗したなら、きっと「ただでは済まない」から。
「治療」が終わって目覚めた時には、一切が消えているかもしれない。
呼ばれた理由も、故郷の記憶も、何もかもが。
反抗心の欠片も失くして、「従順なシロエ」になるかもしれない。
コールの前まで馬鹿にしていた、「マザー牧場の羊」になって。
他の候補生たちと全く同じに、マザー・システムに従順になって。
(……ぼくが突然、そうなったって……)
誰も疑問を抱くことなど無いのだろう。
記憶処理など当たり前だし、不審に思う者などは無い。
そして「自分」も何の疑問も抱くことなく、周囲に溶け込み、それっきり。
両親も故郷も全て忘れて、いつか行けるだろう地球を夢見て。
メンバーズに選ばれる時を目指して、勉強と訓練に打ち込み続けて。
(…そんな人生、御免だよ)
ぼくは絶対に忘れない、とマザー・イライザへの怒りは消えない。
機械が何を消したにしたって、この屈辱を忘れはしない。
「消されたのだ」と自覚があったら、憎しみも恨みも募るだけ。
たとえ機械が何を消そうと、「機械に対する怒り」が心に残っていたら。
(……でも……)
今日も「大事な何か」を消されて、曖昧になっているだろう記憶。
両親の顔が更におぼろになったか、故郷の家が霞んでいるか。
奪われた記憶は、どう足掻いたって、けして戻っては来ないけれども…。
(…ぼくは何もかも、忘れたりしない…)
欠片しか残っていなくたって、と開けた引き出し。
其処には「故郷」が入っている。
懐かしい両親も、その中にいる。
(……ピーターパン……)
たった一つだけ、故郷から持って来られたもの。
子供のころから大事にしていた、両親に貰ったピーターパンの本。
それを開けば、今でも故郷へと飛べる。
両親の顔がぼやけていたって、家の住所を忘れていたって。
「あの家で、本を読んでいたシロエ」が「育って、此処にいる」のだから。
今も「シロエ」は「シロエ」なのだし、ピーターパンの本も変わらない。
機械が何を消してゆこうと、本がある限り、大丈夫。
手にしてページを繰っていったら、両親の声が蘇るから。
故郷の家で座った床やら、寝転がったソファも思い出すから。
コールされたら、ピーターパンの本を読む。
それが習慣になったけれども、何故だか、今日は見当たらない。
(あれ…?)
引き出しに入れていなかったっけ、と慌てて周囲を見回してみる。
広い机の端から端まで。
部屋の書棚も目で追っていって、それから側に出掛けて捜した。
「ピーターパン」の背表紙を。
幼い頃から馴染んだ本だし、タイトルが無くても「見ただけで」分かる。
それなのに、本が見付からない。
部屋中の、何処を捜しても。
「こんな所には、入れやしない」と思う場所まで探ってみても。
(……何故……?)
どうして見付からないんだろう、と増してゆく焦り。
E-1077に泥棒などはいないし、第一、個室に他の生徒は立ち入れない。
そういう規則で、もしも踏み込む者がいたなら…。
(候補生じゃなくて、職員だとか…)
教官やら、保安部隊の者やら、そういった「大人」だけになる。
彼らが部屋に入ったのなら、そして「ピーターパンの本」が無いなら…。
(……処分された……?)
まさか、と冷えてゆく背中。
マザー・イライザが命じただろうか、「あの本を処分しなさい」と。
「ピーターパンの本」を持ったシロエは、何処までも反抗的だから。
何度コールを受けても懲りずに、システム批判を繰り返すから。
そうして噛み付き続ける「シロエ」が、何を頼りにしているのか。
心の拠り所は何になるのか、マザー・イライザなら「知っている」。
コールの後で部屋に戻れば、広げるピーターパンの本。
「まだ大丈夫」と、「覚えている」と、心だけを遠い故郷へ飛ばせて。
子供時代の消された記憶にしがみついては、「忘れやしない」と誓い続けて。
マザー・イライザは、当然、気付いているから、「ピーターパンの本」を消しただろうか。
二度と「シロエ」が手に取れないよう、盗み出させて、処分させて。
「……嫌だ……!!」
返して、と叫んだ自分の悲鳴で目が覚めた。
じっとりと肌に寝汗が滲んで、薄暗がりの中で瞬きをする。
(……夢……?)
夢だったのか、と周りを探ってみた手に、伝わって来た「本」の感触。
そういえば、寝る前に読んだのだった。
遠い故郷に思いを馳せて、「ピーターパン」を。
夢の中で故郷へ飛んでゆけたら…、と枕元にそっと本を置いて寝た。
(…ぼくの本…!)
まだ此処にある、と大切な本を抱き締める。
この本を失くしてたまるものかと、「マザー・イライザにも奪わせない」と。
(……もし、本当に処分されたら……)
憎い機械を許しはしないし、生涯かけて憎み続ける。
地球の頂点に立つ日を待たずに、クーデターさえ起こすかもしれない。
「今が勝機だ」と思ったら。
勝算があると踏んだ時には、海賊どもを味方に引き入れてでも。
(…ぼくは、絶対に許さない…)
これ以上、ぼくから奪わせはしない、と本を抱き締めて心に誓う。
マザー・イライザが何をしようと、「シロエ」は「けして、従わない」と。
大切な本を奪い去られても、けして機械に屈しはしない。
こんな夢さえ見てしまうほどに、「過去」を大事にしているから。
機械が何を消してゆこうと、「シロエ」そのものは「消せはしない」と思えるから…。
何を消されても・了
※ピーターパンの本をシロエが持っているのも不思議ですけど、持っていられるのも不思議。
何処かで処分されそうなのに、と思った所から出来たお話。シロエが見た悪夢。