(……過去か……)
それに子供時代か、とキースが浮かべた自嘲の笑み。
「私は、持ってはいなかったのだ」と、今更ながらに、ノアの自室で。
グランド・マザー直々の任務で、E-1077を処分してから暫く経つ。
遥か昔に、シロエが「見て来た」フロア001に入った日から。
彼が「ゆりかご」だと言っていた場所、其処で目にしたサンプルたち。
「キース」は「生まれたモノ」ではなかった。
機械に「作り出されたモノ」。
文字通りに「無から」生まれた生命、三十億もの塩基対を合成されて。
「ヒト」なら誰もが持つDNA、その名の鎖を紡ぎ出されて。
マザー・イライザが「作った」人形、「ヒト」であっても「ヒト」でないモノ。
皮膚の下には、ちゃんと赤い血が流れていても。
こうして思考している頭脳は、機械ではなくて脳味噌でも。
(…水槽にいた頃の、私の記憶は…)
強化ガラスの水槽の中の「キース」を眺める、研究者たちだけ。
あの頃に「キース」の名があったのか、ただの記号で呼ばれていたかは知らない。
マザー・イライザが「それ」を語る前に、全てを破壊して来たから。
フロア001のコントロールユニットはもちろん、E-1077の心臓部も。
(名前だったか、記号だったか、そんなことはどうでもいいのだがな…)
過去を持たないことは確かだ、と零れる溜息。
とうに夜更けで、側近のマツカも部屋にはいない。
彼が淹れて行ったコーヒーも冷めて、一人、考え事をするだけ。
昼間の出来事、それが頭をもたげたから。
普段だったら気に留めないのに、今夜は何故か引っ掛かる。
見舞いに出掛けたサムの病院、其処でいつもの笑顔だったサム。
「赤のおじちゃん!」と嬉しそうに笑んで、「今日の報告」をしてくれて。
何を食べたか、どれが一番美味しかったか。
苦手な料理も食べたけれども、「ママのオムレツは美味しいよ!」と。
「今日のサム」は、父に叱られたらしい。
勉強しろ、と怖い顔をされて。
母が作ってくれたオムレツ、それの他にも「これも食べろ」と強いられたりして。
(…今のサムは、私を覚えていないが…)
「友達だったキース」を忘れて、「赤のおじちゃん」としか呼んではくれない。
心だけが子供に戻ってしまったサムの世界に、「候補生時代」は残っていないから。
E-1077も「キース」も、子供時代のサムとは無縁のものだから。
(そうやって、全て忘れてしまっていても…)
サムは幸せに生きている。
ノアには「いない」筈の両親、優しくも、また厳しくもあった養父母たちと。
彼の心を覗いたならば、きっと、「ジョミー・マーキス・シン」もいることだろう。
「ミュウの長になった」幼馴染ではなくて、「一緒に遊ぶ友達」として。
かつて「キース」がそうだったように、サムが心を許す者として。
(…心だけなら、赤のおじちゃんの私にも…)
許してくれてはいるのだろう。
そうでなければ、サムは懐きはしないから。
「自分だけの世界」に生きているサム、けれども彼の笑顔は消えない。
幸せに満ちた子供時代に、心だけが戻っているものだから。
彼の側には、養父母たちがいるのだから。
(…サムは、いつでも幸せそうで…)
たまにションボリしている時には、「パパがうるさいんだ」と悲しげな顔。
勉強せずに遊んでいたから、サッカーボールを取り上げられたとか、そういう思い出。
子供時代のサムが経験したこと、それがそのまま蘇って。
(…そうやって、しょげている時があっても…)
じきに元気を取り戻す。
「赤のおじちゃん」に、あれこれ報告するために。
病院で食べた筈の料理を、母が作った料理のつもりで披露して。
オムレツなどは食べていない筈の日も、「ママのオムレツ、美味しかったよ!」と。
苦手な野菜なども食べたと、「サムは偉いな」と褒めて貰いたくて。
いつもは「そうか」と笑顔で頷き、しょげていたなら慰めもする。
ジルベスター星系から戻った頃にも、そのように時を過ごしていた。
十二年間、会わないままでいた「友達」に会いに出掛けては。
「昔のサム」は、もういなくても。
「キースを覚えていないサム」しか、病院で待ってはいてくれなくても。
E-1077を処分した後も、何度も訪ねた。
「自分の正体」が何かを知っても、「ヒトではないのだ」と思い知らされても。
それでも自分は「人間」なのだし、怪我をしたなら血も流れる。
頭の中を巡る考え、それも「機械のプログラム」ではない。
何度も自分にそう言い聞かせて、「私はヒトだ」と思って来た。
たとえ作られたモノであろうと、見た目も中身も「ヒトと同じだ」と。
けれども、「持っていない」過去。
今の自分が、何かの事故で「サムと同じ」になってしまったら、いったい何が残るのか。
強化ガラスで出来た水槽、その中で育って来たのなら。
成人検査が「全部、奪った」とシロエが怒りを露わにしていた、子供時代が無いのなら。
(…ただ、ぼんやりと虚ろな瞳をしているだけで…)
たまに頭を掠めてゆくのは、フロア001にいた研究者たちの姿だろうか。
水槽の向こうで「何か記録をつけていた」者や、水槽を軽く叩いていた者。
白衣を纏った「彼ら」だけしか、残ってくれはしないのだろうか。
「失う過去」が無かったら。
最初から「過去を持たずに育って」、そのまま社会に出て来たのなら。
(……てっきり、忘れてしまったものだと……)
長い間、そう信じていた。
シロエが「フロア001」に行くまでは。
其処で「ゆりかご」を見付けたシロエに、「忘れるな!」と言われるまでは。
(…フロア001に行けば、全て分かると…)
そう思わされた、その名を聞いた日。
シロエが保安部隊に連行されて、E-1077から「消えてしまった日」。
次の日にはもう、誰もシロエの名を覚えてはいなかったから。
「そんな子、知りませんけれど」と、同期生までが答えたほどに。
あの忌まわしい出来事のせいで、疑い始めた自分の生まれ。
「もしかしたら、自分は機械なのでは」と、「ヒトではない」可能性さえも考えて。
(…ある意味、ヒトではなかったのだが…)
それでも「キース」を調べてみれば、「ヒトだ」と誰もが思うだろう。
DNAまで解析しても、「そういうDNAを持ったヒトだ」と判断するだけ。
似たような遺伝子データの持ち主、それが一人もいなくても。
(…SD体制が始まって以来、一度も使われなかった卵子などを使って…)
人工子宮で育てたならば、「誰も知らないDNAの持ち主」が生まれることも有り得る。
今から六百年以上もの昔に、凍結されたままの卵子や精子を使って子供を作ったら。
(私のデータを解析しても、ヒトだと答えが出るのだろうが…)
しかし私は「ヒト」ではない、と自分自身が知っている。
サムのように「戻ってゆける過去」を持たない、「子供時代」を知らない者。
シロエが最後まで焦がれ続けた「生まれ故郷」さえ、持ってはいない。
いくら「キース」のパーソナルデータに、それらが「きちんと」記されていても。
父の名はフルで、母はヘルマで、出身地は育英都市のトロイナスでも。
(…フルという名の父もいなければ、母のヘルマもいないのだ…)
その上、トロイナスなど知らない。
任務でさえも訪れたことがない場所、「キース」が存在しなかった場所。
(……もしも、忘れてしまったのなら……)
何かが違っていただろうか、と今夜は思わずにいられない。
「成人検査のショックで忘れる」ことなら、たまにあるのだと聞いている。
養父母も故郷も存在するのに、「思い出せなくなってしまう」例。
自分もそうだと信じていたから、平気な顔をしていられた。
シロエが何と詰って来ようが、「思い出せない」ことに不安を覚える夜があろうが。
(…忘れたのなら、それは仕方のないことで…)
どうしようもない、と割り切っただけに、余計に「シロエ」が不思議だった。
何故、あれほどに「過ぎ去った過去」にこだわるのか。
もう会えはしない養父母たちを懐かしんでは、帰れない故郷にしがみつくのか。
「忘れてしまえば、此処での暮らしも楽だろうに」と思いもした。
システムに逆らい続けはしないで、「そういうものだ」と納得したなら楽なのに、とまで。
けれど、今なら「分かる」気がする。
今では「子供時代」を生きているサム、彼は幸せそうだから。
傍から見たならサムの心は壊れていようと、彼の笑顔は本物だから。
(ああいった風に、笑えるのならば…)
成人検査が「消してしまう」過去は、きっとシロエが叫んだように、大切なもの。
「ヒト」が生きてゆく上で欠かせないもの、「無くてはならないもの」なのだろう。
成人検査で「奪われた」後も、「その人間」を根幹から構成し続けて。
「何もかも失くしてしまったサム」にも、「その時代だけ」が残ったように。
(…その過去さえも、持たない私は…)
いったい何者なのだろうか、と「水槽の記憶」にゾクリとする。
それが「キースを構成する」なら、「ヒトとは言えない」だろうから。
サムのように「全てを失くした」時には、「空っぽのキース」が残るのだろう。
「ママのオムレツは美味しいよ!」と、「過去に生きる」ことは出来なくて。
ただ、ぼんやりと宙を見詰めて、研究者たちの幻だけが、時折掠めてゆくだけのことで…。
持っていない過去・了
※キースには「過去の記憶が無い」わけですけど、それはプラスなのかマイナスなのか。
もしもサムのような目に遭った時は、何一つ残らないだけに。…有り得ない話ですけどね。