(マザー・イライザ…)
それが何さ、とシロエが顰めた顔。
ステーションE-1077、其処で与えられた自分の部屋で。
SD体制の時代の教育の要、エリートを育成するための最高学府。
(…こんな所になんか…)
来たくなかった、いつまでも故郷にいたかった。
十四歳の誕生日を迎えた子供は、大人の世界へ旅立つとは知っていたけれど。
目覚めの日とはそういうものだと、学校で何度も習ったけれど。
(……誰も教えてくれなかった……)
その日に受ける成人検査が何なのか。
受ければ何が起こるというのか、自分はどうなってしまうのか。
(…荷物は持って行けないって…)
そういう規則は知っていたものの、「邪魔になるから」だと思っていた。
成人検査は健康チェックのような検査で、それには荷物が邪魔なのだろう、と。
(だから、注意されたら置けばいい、って…)
そう考えて、大切な本を持って出掛けた。
両親がくれた宝物。
幼い頃から大事にしてきた、ピーターパンの本を鞄に入れて。
(…だけど、ぼくには…)
これしか残らなかったんだ、と机の上の本を見詰める。
ピーターパンの本は自分と一緒に来たのだけれども、他のものは全部置いて来た。
大好きな両親も、懐かしい故郷も、何もかも。
子供時代の記憶と一緒に失くした全て。
憎い機械に、テラズ・ナンバー・ファイブに消された、「捨てなさい」と。
「忘れなさい」と命じた機械。
そうして全て失くしてしまった、ピーターパンの本以外は。
E-1077に連れて来られて、既に何日も経ったのだけれど。
同じ船で此処に着いた者たちや、同じ日に到着した者たち。
共にガイダンスを受けた同級生たち、彼らは此処に馴染んでゆくのに…。
(…こんな薄気味悪い場所…)
嫌だ、としか思えないステーション。
頼りなく宇宙に浮いていることより、足の下に地面が無いことよりも…。
(…みんな、平気で…)
誰も振り返りはしない過去。
自分と同じに、過去を失くした筈なのに。
子供時代の記憶は薄れて、もう漠然としたイメージくらいしか無い筈なのに。
なのに平気な同級生たち、それが気味悪くてたまらない。
おまけに此処は、機械が治めているという。
(マザー・イライザ…)
そういう名前で呼ばれる機械。多分、巨大なコンピューター。
恐らくはきっと、あの憎らしいテラズ・ナンバー・ファイブと同じ。
(気味悪い顔で…)
顔の左右が歪んだような、醜く恐ろしい姿。
見た者を石に変えると言われる、メデューサのように忌まわしい顔。
(髪の毛が全部、蛇になっていても…)
驚かないよ、と思うほど。
どうせ会ったら、そういう姿だろうから。
テラズ・ナンバー・ファイブなどより、ずっと醜いだろうから。
そんな姿だ、としか思えない機械。
出来れば会わずにいたい機械が、マザー・イライザ。
もう機械などと話したいとは思わないから。
テラズ・ナンバー・ファイブで懲りたし、二度と関わりたくもないから。
(…会うもんか…)
絶対に会ってやるもんか、と心で繰り返していたら、けたたましく部屋に鳴り響いた音。
此処では嵌めているのが規則の、手首の輪から。
(マザー・イライザ…!)
この音がコールサインなのだと教わった。
コールされたら、行かねばならない。…マザー・イライザが待つ場所へ。
呼ばれる理由は実に様々、叱られるのだと聞いている。
けれど自分は今の所は無失点だし、呼ばれる理由は何も無い筈。
(……なんで……)
どうして、と手首を睨んでみたって、コールサインは止まらない。
マザー・イライザに会いに行かない限りは、この音はけして消えないという。
引き摺ってでも連れてゆかれる、自分の足で行かないのなら。
「マザー・イライザがお呼びだ」と、音を聞きつけた職員たちに捕まって。
あるいはプロフェッサーに言われて、渋々出掛けてゆくしかない。
(…そのくらいなら…)
行ってやるさ、と蹴り付けた机。
醜い機械と御対面だと、呼び付けた理由を正してやると。
何もしていないのに何故呼んだのかと、憎まれ口の限りを叩いて。
立ち上がったら、鳴り止んだコール。
まるで心を読んでいるよう。
(……気味が悪いったら……)
それとも監視カメラだろうか、如何にも機械がやりそうなこと。
気付かれないよう、機械の瞳で全てを監視し続ける。
(…部屋に帰ったら…)
そいつを見付けて壊してやるさ、と鼻で嗤った。
機械が監視すると言うなら、こちらもそれに対処するまで。
この部屋の中を端から探して、監視カメラを見付けて微塵に打ち砕くか…。
(…偽の映像でも流せるようにしてやろうかな?)
そういう勝負なら負けないよ、と唇に浮かべた勝ち誇った笑み。
相手は所詮、機械だから。
どんなに優れたコンピューターでも、人間には劣る筈だから。
(勝たせて貰うよ)
このぼくが、と固めた決意。
自分は機械に負けはしないし、言いなりにだって、なったりはしない。
監視するなら、そうされないよう手を打てばいいだけのこと。
カメラが無ければ、機械の目など無いのと同じなのだから。
けしてこの部屋を覗けはしないし、先回りだって出来ないから。
(帰って来たら…)
最初にやることは、監視カメラの発見と破壊。
それで防げる機械の盗み見、マザー・イライザの視線は消える筈だから。
ぼくは負けない、と部屋を出てから進んだ通路。
マザー・イライザはこの先にいる、と教わった場所へ真っ直ぐに。
(…出て来い、機械…!)
お前なんかに負けるもんか、と扉の奥へと踏み込んだ途端に、止まった息。
もう文字通りに止まった呼吸。
息をすることさえも忘れてしまって、懐かしさに胸が高鳴った。
目の前に故郷の母がいたから。
二度と会えないと思っていた母、顔さえもぼやけてしまった母が。
「ママ…!!」
どうしてママが此処にいるの、と叫んで駆け寄ったのだけど。
母に抱き付こうとしたのだけれども、すり抜けてしまった自分の腕。
「……ママ……?」
ママの身体が透き通ってる、と見開いた瞳。
いったい母はどうしたのだろう、それとも立体映像だろうか…?
「ママ……?」
急にこみ上げて来た不安。
故郷の母に何か起きたか、父に何かがあったのか。
それで知らせが来たのだろうか、立体映像で自分宛にと。
(……ママ……?)
何があったの、と尋ねたいのに声が喉から出て来ない。
あまりの不安に押し潰されて、すっかり声が嗄れてしまって。
マザー・イライザのコールの理由はこれだったのかと、恐ろしくて。
故郷で何が起こったのかと、母はいったい、何を知らせに来たのかと。
ただ怯えながら待っていた言葉。
母の映像が告げに来た何か、きっと良くない何かの兆し。
それは間違ってはいなかったけれど、不安は当たっていたのだけども…。
「…ようこそ。セキ・レイ・シロエ」
あなたの心が不安定なのでコールしました、と微笑んだ母。
「…ママ……?」
コールって何、と驚いて見詰めた母の顔。
母の言葉とも思えないから、こんな言い回しを母はしなかった筈だから。
(ぼくのこと、ママは「あなた」だなんて…)
呼ばなかった、と途惑う間に、母は優しい笑顔で続けた。
「コールサインで来たのでしょう? …セキ・レイ・シロエ」
私の名前は、マザー・イライザ。
このステーション、E-1077のメイン・コンピューターです。
あなたが来るのを待っていました、と母は澱みなく話し続ける。
「お母さんの姿に似ているでしょう?」と、笑みを湛えて。
「見る者が親しみを覚える姿で現れることも、私の大切な役目なのです」と。
(……嘘だ……!)
お前なんかはママじゃない、と叫びたいのに、動かない舌。
身体ごと全部凍ってしまって、床に縫い止められたよう。
(…ママ、助けて…!)
パパ、と心で悲鳴を上げても、母の手が頬に触れて来る。…マザー・イライザの手が。
「いらっしゃい、シロエ」
あなたの心を私に見せて、と微笑む機械に逆らえない。
こうする間に、意識が薄れて消えてゆくから。
マザー・イライザが触れた頬から、身体中の力が抜けてゆくから。
目覚めた時には、やはり同じに目の前に母。
「大丈夫ですか?」と、「ずいぶん深く眠っていました」と。
気分はどうです、と慈愛に満ちた笑みを浮かべる母を激しく怒鳴り付けた。
「お前なんか」と、「ぼくは機械は大嫌いだ!」と。
「……まあ、シロエ……」
あなたは混乱していますね、と機械は叱り付けさえしない。
母ならば、きっと叱るのに。
「ママに向かって怒鳴るだなんて」と、「パパが帰ったら言わなくちゃ」と。
(…まだ、そのくらいのことは覚えているよ…!)
こんな機械には騙されない、と駆け出したけれど。
後をも見ないで逃げ出したけれど、シロエは気付いていなかった。
幾つかの記憶を消されたこと。
一部を書き換えられたこと。
(…何なんだ、あのマザー・イライザって…!)
機械のくせに、と走り込んだ部屋で机に叩き付けた拳。
母を真似るなど許しはしないと、反吐が出そうなコンピューターだと。
そうして怒り続けるけれども、戦いを決意するのだけれど。
『……全て、私のプログラム通り……』
あなたはそのままでいいのです、と部屋を視ているマザー・イライザ。
シロエの中から、監視カメラを破壊する決意を消したから。
それを消されたことさえ知らずに、シロエは孤独な戦いの道へと踏み出したから…。
母を真似る機械・了
※シロエには「ママ」に見える筈なのが、マザー・イライザ。母に似た姿で現れる機械。
最初の出会いはどうだっただろう、と考えていたら、こういうことに。シロエ、可哀相。