(……シロエ……)
ぼくが殺した、とキースが机に叩き付けた拳。
マザー・イライザからの撃墜命令、それに従うしかなかった自分。
シロエを乗せた練習艇を撃ち落とした後、戻ったE-1077。
まだMの思念波攻撃の余波が残っていたから、誰にも声を掛けられることなく、自分の部屋まで戻れたけれど。
(…此処にいたんだ…)
昨日、シロエはこの部屋にいた、と入った途端に気付かされた部屋。
シロエを匿い、手当てしていた。シロエはこの部屋で、保安部隊に逮捕されて…。
(…誰も覚えていなかった…)
昨日の練習飛行のことも、Mの思念波攻撃のことも。…シロエのことも。
練習飛行のことを皆に尋ねて回れば、「勉強のしすぎか?」と言われる始末。下級生にシロエのことを訊いたら、「そんな子、知りませんけど」と途惑うような声が返った。
誰一人覚えていなかったシロエ。
同じクラスだった筈の下級生たちも、「幼馴染に似ている」と言っていた筈のサムも。
(……マザー・イライザ……)
シロエが存在したという事実は消されてしまった。ステーションE-1077から。
誰もシロエを覚えていなくて、きっとこの先も思い出さない。
(…ぼくしか覚えていないのか…)
シロエを殺した自分だけしか。
ステーションの何処にもシロエの記録は無いのだろう。何もかも全部、消されてしまって。
命どころか、存在すらも消されたシロエ。
彼が生きていた証ですらも。
もう残ってはいないのだ、とアクセスしてゆくステーションの記録。
何処を捜しても、出て来はしないシロエのデータ。
「セキ・レイ・シロエ」という存在自体が、無かったことになっているから。
名簿ごと消されて、何処にも無いから。
(…此処も駄目なのか…)
此処も、此処も、と端から調べてゆくのだけれども、データも写真の一つも無くて。
何度目の溜息を吐き出したことか、「此処も駄目だ」と。
そして、ふと気付いた監視カメラが捉えた画像。
(カメラだったら…)
もしかしたら、とアクセスしてみた。
膨大な画像がある筈なのだし、シロエを捉えているかもしれない。
(レクリエーション・ルーム…)
あそこでシロエと腕を競って、それからシロエを殴ってしまって…、と心当たりのある日付けを開いてみたけれど。
(……マザー・イライザ……!)
監視カメラが捉えた画像は、自分一人が映っているだけ。淡々と的を射てゆく姿が。
隣にいた筈のシロエはいなくて、ゲームを終えた後の自分は…。
(…此処までやるのか…!)
サムと一緒に帰ってゆく姿。
腕を引っ張られてゆくのではなくて、何事も無かったかのように肩を並べて。
監視カメラの画像までが処理されているなら、もう手も足も出ないのだろう。
シロエは本当に消えてしまって、命も、彼の存在すらも…。
(無かったことにされているんだ…)
今はもう、記憶の中にいるだけ。この自分の。
彼を殺した自分しか覚えていないだなんて、世界はどれほど残酷なのか。
マザー・システムは何処まで酷いことをするのか、と噛んだ唇。
何もかも消してしまうなんて、と。
(…確かに昨日、此処にいたのに…)
この部屋にいた筈なんだ、とアクセスした監視カメラの映像。
昨日の自分の部屋のデータを覗いてみても…。
(……いない……)
早送りしてみても、巻き戻してみても、シロエは映っていなかった。
自分は一人で部屋に入って、普通の一日を送っていただけ。
(…何も残っていないんだな…)
本当に何も、と眺めた映像。
(キース・アニアン…)
お前がシロエを殺したんだ、と心で呟いた自分の名前。
ついでにその名を打ち込んだ。
シロエを殺した男のデータを、罪深い自分を眺めてやろうと。
(父、フル…。母、ヘルマ…)
何も覚えていないんだが、とデータを表示させていったら…。
(シロエ…!)
いた、と食い入るように見詰めた画面。
カメラが捉えたこの部屋の映像、其処にシロエが映っていた。
「マザー・イライザが作った人形なんだ」と笑っていた時の、あのシロエが。
着せてやったシャツを「あなたの匂いがする」と嫌った、シロエの姿が。
(…消去ミスか…?)
きっとそうだ、と直ぐに気付いた。
個人データの中にあるから、消去した係が見落としたデータ。
けれど、自分が見付けたからには…。
(処理されてしまう…)
もう間違いなく、マザー・イライザに知れているから。
明日か、早ければ次の瞬間、このデータは…。
(今しかない…!)
シロエの姿を残すなら。
彼が確かに生きた証を、存在した証を残したいなら。
シロエを殺した自分がやるとは、なんとも皮肉な話だけれど。
皮肉どころか残酷だけれど、シロエがこのまま消えてしまうのは…。
(…許せない…!)
マザー・イライザも、その命令に逆らえなかった自分の罪も。
シロエの存在、それが消えるのを黙って見過ごすということも。
だから迷いはしなかった。
見付けたシロエを、彼の姿を引き出して残しておくことを。
引き出した後に、もう一度アクセスしてみたデータ。
(……やっぱり……)
消えてしまっていたシロエ。
部屋には自分だけしかいなくて、シロエの影も形も無かった。
それでも残せた、と見詰めた写真。
監視カメラが捉えたシロエの映像、その一瞬をプリントアウトしたもの。
ベッドの上から、こちらを見ている鋭い視線。
(…こういう目だった…)
シロエはこんな瞳をしていた、と写真をノートに挟み込んだ。
いつも講義に持ってゆくノート、この中に入れておきさえすれば…。
(誰も手出しは出来ない筈で…)
シロエの写真が消え去ることは無いだろう。
きっと残しておけるのだろう、これから先も。
(マザー・イライザが気付いたとしても…)
まさか、これまでは消しに来るまい。
其処までしようと言うのだったら、自分の記憶はとうに無いから。
シロエの船を撃ったことさえ、綺麗に忘れているだろうから。
(紙媒体が最強の筈なんだ…)
アナログの極みと言えるけれども、これは機械が消せないデータ。
機械の力でこれを消すには、シュレッダーにかける以外に無い。
でなければ焼却、どちらにしても…。
(マザー・イライザの手では、処分出来ない…)
何処にでも姿を現すけれども、あれは幻影に過ぎないから。
誰かに命令しない限りは、紙に刷られた写真を消すことは不可能だから。
そうして残った、シロエの写真。
たった一枚きりの写真を、マザー・イライザは消しに来なかった。
わざとだったのか、そうでないのか、それはキースにも分からないまま。
写真を無事に手にしたままで、E-1077を卒業出来た。
メンバーズ・エリートになった後にも、シロエを忘れはしなかった。
機械は此処までやるのだから、と何度も肝に銘じるために。
シロエが残したメッセージに出会い、E-1077を処分した後も。
(私はシロエを忘れまい…)
国家主席に昇り詰めても、やはり持ち続けたシロエの写真。
生涯、誰にも見せることなく、自分だけが手に取れる場所に隠し続けて。
けれども、ミュウとの交渉で地球に降りる前、旗艦ゼウスにキースはそれを残した。
置き忘れたのか、意図があったかは分からないけれど。
地球に降りて、戻って来なかったキース。
彼の命は地球の地の底で尽きたから。
グランド・マザーに翻した反旗、ミュウの側へと与した末に。
キースの名前は伝説となった。
偉大な国家主席がいたと。
旗艦ゼウスはメギドと共に消えたけれども、キースの遺品は持ち出された。
マードック大佐が下した退艦命令、国家主席の私物も運び出しておけ、と伝えられたから。
無傷だったキースの遺品を整理した部下、彼らが見付けたシロエの写真。
誰もその顔を知らない少年。
「誰なんだ…?」
「さあ…? ずいぶん古い写真らしいが…」
閣下の大切な人だろうか、と語り合った部下たち。
キースのシャツを羽織ったシロエは、薄暗い部屋のベッドの上。
幾つか外れたシャツのボタンと、覗いた胸元。
何の予備知識も持たずに見たなら、どう考えても怪しかったから。
恋人だろう、と部下たちは噂し合った。
「そう言えば閣下にはマツカがいた」と、「閣下の愛人だったのか」と。
この少年がいなくなったから、代わりにマツカを、と。
マツカよりも前にキースが愛した、最期まで写真を持ち続けた少年。
それが誰かも分からないまま、恋人なのだと思い込んだ部下たち。
「閣下はロマンチストだった」と、「遺品の中に恋人の写真が」と。
特に口止めもされなかったから、口から口へと伝わった噂。
じきにスウェナの耳に入って、取材に出て来た凄腕ジャーナリスト。
キースの最後のメッセージを流した、自由アルテメシア放送のトップが彼女だったから…。
「この写真ですが」
スタージョン中尉が差し出した写真、スウェナは見るなりシロエと見抜いた。
彼女は記憶を消されないまま、E-1077を出て行ったから。
「セキ・レイ・シロエ…!?」
「誰ですか、それは?」
「E-1077…。キースの下級生だった子よ」
でも、存在を消されちゃったの、と寂しげな笑みを浮かべたスウェナ。
「彼のことは誰も覚えていないわ」と。
其処から先はスウェナの出番で、彼女にもあった心当たり。
(どおりで、私に冷たかった筈ね。…キース)
振られるわけだわ、と今頃になって彼女は知った。
キースに振り向いて貰えなかったから、結婚するために逃げるように去ったE-1077。
(…女に興味が無かったんだわ)
私の一人相撲だったのね、と納得したスウェナだったけれども。
(シロエのことは、スキャンダルと言うより…)
美談だわね、と考えた。
存在も消されてしまった少年、シロエを忘れず愛し続けたキースだから。
最期まで写真を持ち続けたまま、誰にも話さず逝ったのだから。
(…この話はきっと売れるわよ…)
出来ればシロエの養父母も見付けて、生きているなら是非とも取材してみたい。
そして全力で出版しよう。
若かりし日の国家主席のロマンスを。
マザー・システムに消された少年、シロエを愛したキースの優しい横顔を。
スウェナはシロエの養父母を見付け、子供時代の話を聞けた。
養父母は忘れずに覚えていたから、シロエのことを。
「頭のいい子だったけれども、夢見がちだった」と、「ネバーランドを夢見ていた」と。
(それで、ピーターパンだったんだわ…)
あの本は、とスウェナが思い出す本。
キースに渡したシロエの遺品。
(あの本は、どうなったのかしら…)
そちらも調べて回ったけれども、出なかった答え。
(きっとキースは、シロエに返してあげたんだわ)
E-1077の処分に向かった記録は、今も消えずに残っていたから。
キースがシロエを愛していたなら、本を返しに行きそうな場所。
ステーションにあった、シロエの部屋へと。
(…いい話だわね…)
そういう風に書いておきましょ、とスウェナは本を書き進めてゆく。
ロマンチストな国家主席には、その展開が相応しいから。
それから間もなく、売り出された本。
『国家主席が愛した少年』、その本はベストセラーとなった。
若き日のキースとシロエのロマンス、悲恋に終わってしまった恋。
読んだ誰もが涙を流して、キースを、それにシロエを思った。
なんと悲しい恋だろうかと、切なくて泣ける話だと。
国家主席は実は優しい人だったのだと、生涯、シロエを忘れなかったと。
「あの本、読んだ?」
「読んだわよ…。SD体制のロミオとジュリエットでしょ?」
シロエはミュウだったらしいものね、と話題の一冊。
帯には本当にそう刷られていた、「悲しきロミオとジュリエット」と。
誤解から生まれた本だけれども、感動を呼んだベストセラー。
『国家主席が愛した少年』、訂正する人は誰もいなかったから。
皆がまるっと信じてしまって、ロミオとジュリエットの恋に涙したから…。
主席が愛した少年・了
※前半だけで止めておいたら、立派にシリアス路線な話。きっと真っ当なショートが1話。
それにせっせと砂をかけてゆく話、だって後半が先に降って来たから仕方ないんだ…!