(……機械の申し子、ね……)
すました顔のトップ・エリート、とシロエの瞳が見詰める先。
E-1077のカフェテリアの中、先に来ていたキース・アニアン。
(あんな奴なんかと…)
一緒に食事をする気など無い。
飲み物の一つも、同じテーブルで飲む気などしない。
マザー・イライザのお気に入りなどは、見ていても、ただ気に障るだけ。
(……ツイてないよね……)
ちょっと休憩しに来たのに、と零す溜息。
自分の部屋では飲めない飲み物、それを頼みに。
懐かしい故郷を思わせる呪文、魔法の言葉を唱えるために。
(…シナモンミルク、マヌカ多めで…)
故郷の家で、そう頼んだのは誰だったろう。
幼かった日の自分だったか、はたまた父か母の好みか。
(……それさえ、思い出せないけれど……)
遠い日に、確かに耳にしていた。
あるいは口にしたかもしれない。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と。
ホットミルクにシナモンを入れて、マヌカハニーを加えた飲み物。
それもマヌカは必ず「多め」。
このステーションにやって来てから、すっかり忘れていたのだけれど…。
(誰かが、それを注文してて…)
言葉の響きに胸が躍った。
「これ、知ってるよ!」と。
確かに何処かで聞いたものだと、まるで幼い子供みたいに。
そうして頼んだシナモンミルク。
マヌカハニーも多めにして、と付け加えて。
ドキドキしながらテーブルに着いて、魔法の飲み物を口に運んだ。
もしかしたら、子供時代の記憶が戻って来るのでは、と。
機械に消されて奪い去られた、故郷での日々が。
(……だけど、なんにも……)
記憶は戻って来なかった。
シナモンミルクを飲んでいたのが、誰だったのかさえも。
けれど、それ以来、忘れはしない。
故郷の記憶を奥底に秘めた、魔法の呪文を唱えることを。
いつか扉が開く時まで、呪文の意味は掴めなくても。
失くした記憶を取り戻す日まで、ただの呪文に過ぎなくても。
(…あれは魔法の言葉なんだよ)
遠く離れた故郷の星と、忘れられない両親と家。
どんなに記憶が薄れようとも、「好きだった」ことを忘れはしない。
だから呪文を唱えたくなる。
呪文を唱えたい気持ちになったら、このカフェテリアにやって来る。
ホットミルクを飲むだけだったら、自分の部屋でも出来るのに。
(シナモンミルクも、マヌカ多めも…)
与えられた自分用の個室で、自分で作って飲むことは出来る。
ミルクを温め、シナモンの風味を付けたなら。
マヌカハニーをスプーンで掬って、それにたっぷり加えたなら。
(…でも、そうしたら…)
魔法の呪文は唱えられない。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」という呪文は。
それを注文する相手がいないと、呪文は意味を成さないから。
だから、こうしてカフェテリアに来る。
故郷に思いを馳せたい時は。
一人きりで部屋に籠っているより、魔法を使いたい気分の日は。
(…それなのに、キース・アニアンね…)
とんだ先客、と顔を顰めて、カウンターに向かおうとしたのだけれど。
(……また、コーヒー……)
いつもアレだ、とキースの手元に目がいった。
此処でキースが頼む飲み物、それはいつでもコーヒーばかり。
判で押したように、同じ注文。
此処には色々なものがあるのに。
キースと一緒にサムがいたなら、そちらはコーラを頼んでいたり、と。
(…まさか、あいつも…)
コーヒーに何かがあるのだろうか。
「機械の申し子」と呼ばれる彼でも、魔法の呪文を持っているとか。
今日の自分が、それを唱えに来たように。
普段から「決して忘れないよう」、定番の飲み物にしているように。
(……まさかね……?)
あんな面白味のない奴に限って、と心の中で吐き捨てる。
キースも故郷を懐かしむなら、もっと人間味があることだろう。
奪われた過去にこだわるのならば、感情だって、ずっと豊かで。
ポーカーフェイスを保っていないで、時には笑って、時には泣いて。
(単に、あいつは…)
コーヒーが好きなだけなのだろう。
過去の記憶は忘れ去っても、舌がコーヒーを覚えていて。
「これは美味い」と、他の飲み物よりも好んで。
(……コーヒーなんか……)
いったい何処がいいのだろうか。
上級生には人気だけれども、下級生は、まだ好まない。
キースも途中でコーヒーの味に目覚めたものか、此処に来る前から好きだったのか。
(…最初からなら…)
きっとキースの故郷の家では、コーヒーが普通だったのだろう。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と頼む代わりに、「コーヒーを」と。
キースの父が飲んでいたのか、両親揃って、コーヒー好きか。
(……それで、あいつも……)
横から味見をしている間に、コーヒー党になっただろうか。
ただ苦いだけの飲み物なのに。
E-1077に来て間もない者には、まるで人気が無いというのに。
(…そうだったなら…)
どうしてキースが、と腹立たしい。
過去のことなど、まるで振り返りもしないだろうに。
両親や故郷を思うことより、未来しか見ていないだろうに。
(……機械の申し子なんだから……)
感情などは何処かに置き去り、そんな風にしか見えないキース。
それなのに、彼も「呪文」を持つなら、神とは、なんと不公平なのか。
キースなんかに持たせてやっても、呪文の価値はゼロなのに。
「コーヒーを頼む」と口にしたって、何の感慨も無いのだろうに。
(……なんで、あいつが……)
そんな呪文を持っているのか、コーヒーを好んで飲んでいるのか。
まるで値打ちが無い男が。
せっかくの呪文も猫に小判で、豚に真珠のようなキースが。
(…………)
やめた、とクルリと返した踵。
キースのお蔭で、今日は呪文が穢れそうだから。
大切な呪文を唱えてみたって、ただ腹立たしいだけだろうから。
(…ホットミルクなら…)
部屋で飲むよ、と魔法の場所に背を向ける。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と唱えられるのは、此処だけでも。
自分の部屋では意味が無くても、キースを見ながら唱えたくはない。
キースも「呪文」を持っているかもしれないから。
それが「呪文」だと気付きもしないで、「コーヒーを頼む」と、いつも、いつでも。
(……本当に猫に小判だってば……!)
あんな奴が呪文を持っていたって、と足音も荒く通路をゆく。
すれ違う者がチラリと見ようが、あからさまに陰口を叩こうが。
「またシロエかよ」と言っていようが、そんなことなど、どうでもいい。
今日は呪文を唱え損ねた、その腹立ちに比べたら。
とても大切な呪文の言葉を、キースも持っているかもしれない。
猫に小判で、豚に真珠のような男が。
「コーヒーを頼む」と口にしてはいても、呪文だとさえ気付かないままで。
(…あんな奴が…!)
ぼくと同じに呪文だなんて、と個室の扉も乱暴に閉めた。
今日は、なんともツイていなくて、呪文も唱え損ねたから。
おまけにキースと出会ってしまって、「猫に小判だ」と思ったから。
(……シナモンミルク……)
マヌカ多めで、と心の中で唱えてみる。
唱えられずに終わってしまった、懐かしい故郷に飛べる呪文を。
それを好んだのは父か、母なのか、自分なのかさえ分からなくても。
(ぼくは、あいつとは違うんだから…)
いつか呪文の謎を解くんだ、とホットミルクの用意をする。
此処では呪文は無理だけれども、その味だけは楽しめるから。
ミルクを温め、シナモンを入れて、マヌカハニーを多めにしたら。
(……誰が、好きだったんだろう?)
コーヒーのように、大人向けではない飲み物。
自分だったと思いたいけれど、それなら忘れたことが悲しい。
キースも呪文を持っているなら、「コーヒーの味」を舌が覚えているのなら。
(……本当に、猫に小判だよね……)
神様の気まぐれにしても酷い、と思うけれども、仕方ない。
呪文を思い出せただけでも、きっと自分は幸せだから。
「シナモンミルク、マヌカ多めで」と唱えられれば、充分だから…。
ぼくだけの呪文・了
※シロエはシナモンミルクですけど、キースはコーヒーなんだよね、と思っただけ。
ずっと昔に書いた作品、『マヌカの呪文』とセットものかもしれません(笑)