(滅びの呪文かあ……)
そういうものがあったっけね、とシロエが緩ませた頬。
Eー1077の夜の個室で、突然、心の中に「それ」が浮かんで来た。
懐かしさと、遠く温かな日々と、微かな痛みを伴った記憶。
(…パパと一緒に見た映画なのか、それともママ…?)
大切な部分が思い出せないから、懐かしくても痛みが湧き上がって来る。
「もう、あの日には帰れないんだ」と、両親と故郷を失ったことを思い知らされるから。
まだ幼かった頃の記憶も、学校に通っていた頃の記憶も、共に危うい。
教師や友人、そういったものは覚えているのに、両親や家の記憶を失くした。
「大人になるには不要だから」と、成人検査で消し去られて。
思い出そうと努力してみても、自力ではどうすることも出来ない。
出来ることと言ったら、思い出せる記憶を懸命に手繰り寄せることだけ。
今夜も、それを試みていた。
ベッドに腰掛け、心の中を空っぽにして、魂だけを子供時代に飛ばして。
頭を掠める記憶の断片、泡沫のように浮かんでは消える、記憶を宿したシャボン玉たち。
膨らんだと思って掴む間も無く、シャボン玉たちは消えてゆく。
キラリと一瞬、虹色の光を放っただけで、儚く消える。
それでも追わずにはいられない。
シャボン玉たちの一つ一つが、大切な記憶を秘めているから。
上手く捕まえることが出来たら、懐かしい出来事を少しだけでも…。
(思い出すことが出来るんだものね…)
機械が残しておいた記憶なのだし、本当に欲しくて必要な記憶は、其処には無い。
そうだと充分、承知していても、やはり追い掛け、掴みたくなる。
どんな記憶が残っているのか、どんな思い出があったのか。
こうして「追い掛ける」ことをしなければ、それらは消えてしまうのだろう。
機械が改めて消去しなくても、自分自身が忘れていって。
不要な記憶を切り捨てるように、大切な筈のことを忘れて。
(そんなの、嫌だ…)
つまらないことでも忘れたくない、と追い掛けて掴んだ、今夜の小さなシャボン玉。
掴んでパチンと弾けた中には、「滅びの呪文」が入っていた。
幼かった日に見に行った映画、あるいは家で鑑賞したのか、そこまでは分からないけれど。
映画の筋は、今となっては思い出せない。
機械が消してしまったものか、幼すぎて忘れてしまったのかも、定かではない。
(…その頃のぼくは、とても小さいみたいだから…)
自分で忘れちゃったのかな、と残念だけれど、幼いなら仕方ないだろう。
それも「思い出」の一つではある。
「せっかく楽しい映画を見たのに、どんな話か忘れちゃった」という失敗談。
幼い子供にありがちなことで、機械は介在していない。
(そういうことなら、思い出せなくても…)
かまわないよね、と大きく頷く。
此処に両親がいたとしたって、「シロエ」を責めはしないだろう。
父ならば、きっと苦笑しながら頭を撫でてくれると思う。
「おやおや、忘れちゃったのかい?」と、「とても喜んでいたんだがね」と。
母にしたって、「あらまあ…」と少し驚いた後で、クスクス笑うに違いない。
「勉強のために使う頭と、そういう頭は違うみたいね」と、可笑しそうに。
(…うん、きっとそう…)
だからいいんだ、と映画の筋は、どうでもいい。
大切なのは「滅びの呪文」という言葉を思い出したこと。
(映画の中で、それを唱えたら…)
古の王国が崩れ始めて、瞬く間に滅びていった。
誰も滅ぼすことの出来ない、恐ろしい力を持っていたのに、呆気なく。
内側からバラバラと分解されて、戦力も全て失われて。
(映画の他にも、色々なヤツがあったっけ…)
すっかり忘れてしまってたけど、と次々に「滅びの呪文」が心に浮かび上がって来る。
夢中で遊んだゲームの中にも、それは鏤められていた。
(絶対勝てない、っていう敵を相手に…)
大賢者が命を捨てて唱えるとか、勇者が危険を冒して呪文を手に入れるとか。
そうした「滅びの呪文」を使えば、敵はたちまち滅びてしまう。
映画に出て来た古の王国、それが崩壊したように。
どんなに強い敵であろうと、「滅びの呪文」に勝つことは出来ない。
(呪文は、忘れちゃったけど…)
あったんだよね、と、懐かしい思い出が一つ蘇った。
幼かった頃の映画の記憶と、故郷で遊んだゲームたちと。
(…呪文まで思い出すっていうのは…)
流石に無理かな、と頭をトントンと叩く。
機械が消去していなくても、自分自身が忘れてしまっていそうな「呪文」。
学校で新たな知識を得たなら、そちらの方が新鮮だから。
「もっと勉強しなくっちゃ」と、知識を増やしてゆきくなって。
(…そうなっちゃったら、ゲームなんかより…)
ゲームを作る仕組みの方とか、そちらに関心を抱いただろう。
エネルゲイアは、技術系のエキスパートを育成するのが目的だった育英都市だから。
(ぼくでもゲームを作れるのかも、って…)
思い始めたら、もう止まらない。
あれこれ調べて、本を読み込んで、勉強する間に「つまらないこと」は忘れてしまう。
ゲームに出て来た呪文などより、本物の「呪文」が重要だから。
様々なゲームを構成している、門外漢には全く意味の掴めない無数の「呪文」たち。
それを覚えて使いこなせば、ゲームを作るだけではなくて…。
(ああいう端末だって作れて…)
自分で好きにカスタマイズが出来るんだよね、とチラリと机の上を眺めた。
其処に置かれた携帯用の端末、此処で自作した小型のコンピューター。
マザー・イライザとは繋がっていない、安心して使える「シロエだけの」もの。
他の候補生たちも、携帯用の端末はもちろん持っている。
シロエにも配布されたけれども、けして愛用してなどはいない。
(…使えば、全部、マザー・イライザに…)
情報が届いて、どう使ったかも知られてしまう、スパイのような代物なのだから。
(おまけに、うんと単純すぎて…)
ハッキングとかも出来ない仕組みだ、と端末の出来には笑うしかない。
自作も出来る者から見たなら、子供だましのオモチャ並み。
とても単純な仕組みになっているのに、使いこなせない候補生だって大勢いる。
(普通に使えている間ならば、何も問題無いけれど…)
端末がエラーを引き起こした時、対処出来ない者たちは多い。
「壊れました」と慌てふためいて、修理して貰おうと走る者たち。
ちょっと弄ってやりさえすれば、エラーくらいは直るのに。
ごくごく初歩の初歩の呪文で、きちんと動き始めるのに。
「馬鹿な奴らだ」と思うけれども、知識が無いのも当然だろう。
彼らが故郷で受けた教育と、エネルゲイアでのそれは大きく異なる。
「シロエ」にとっては当たり前でも、彼らは「呪文」を学んではいない。
学んでいない者に向かって「使え」と言っても、無茶な注文というものだと分かる。
勇者も大賢者も、「滅びの呪文」を努力して手に入れていた。
大賢者は長く学び続けて、勇者は冒険の旅を続けて。
並みの人間には不可能なことを成し遂げた末に、ようやく「呪文」を知ることが出来る。
(端末用に使う呪文は、滅びの呪文みたいに危険な呪文じゃないけどね…)
一般人が知っていたって、何の問題も無いんだけれど、と思いはしても、知識は別。
そのための学びをしていなければ、呪文に触れる機会さえ無い。
機会が無ければ、興味を抱きもしないだろう。
端末の仕組みがどうなっているか、エラーが出たなら、どうやって修復するのかにも。
(…此処はメンバーズ・エリートを目指す場所だし、その内に…)
基本は叩き込まれるだろう。
単独で任務に出掛けた先では、修理も自分でせねばならない。
任務の途中で事故に遭ったりして、一人きりになってしまった時でも状況は同じ。
(壊れてどうにもならないんです、って叫んでたって…)
誰も修理に来てくれないから、自力で直すことが出来なかったら、もうおしまい。
(それじゃ困るし、基本は覚えるしかないだろうけど…)
もっと学ぼうって奴は多分いないね、と鼻で笑って、ハタと気付いた。
「マザー・イライザだって、機械じゃないか」と。
Eー1077を支配し、君臨してはいるのだけれども、正体は巨大なコンピューター。
つまりは、機械。
地球にいると聞くグランド・マザーも、SD体制の世界を統治しているけれど…。
(…やっぱり、機械に過ぎないわけで…)
元は人間が作った「モノ」。
「シロエ」が自作した携帯用の端末、それと全く変わりはしない。
その性能がずば抜けて高く、「シロエ」如きに作れはしない、というだけのこと。
違う部分は性能だけで、「人間が作った機械」な事実は、何処も違いはしないのだ。
(…マザー・イライザも、グランド・マザーも、人間が作った機械なら…)
それを構成している呪文は、恐らく、「シロエ」も知っているもの。
細かく切り分けて分析したなら、「なるほど」と理解可能な部分もあるだろう。
(そして、人間が作ったんなら…)
滅びの呪文が、必ず設けられている筈。
崩壊させるための呪文ではなくて、停止させるために設置するモノ。
(端末がエラーを起こすみたいに…)
マザー・コンピューターが、けしてエラーを起こさないとは言い切れない。
自動修復機能があっても、それが万全とは言えないことなど、機械を作る者には常識。
(…マザー・イライザにも、グランド・マザーにも…)
緊急停止のコマンドは「絶対に」あるし、組み込まれている。
誰がいつ、それを行使するかは、最高機密で、ごく一握りの者だけが知っている呪文。
メンバーズ・エリートになった者でも、その生涯に出会えるかどうか。
(……滅びの呪文ね……)
それが分かれば、何もかも一瞬で終わらせるのに、と唇を噛む。
「勇者になるしかないじゃないか」と、道のりの長さを思わされて。
厳しい冒険の旅を続けて、国家主席になれる時まで、呪文は手に入りそうもないから。
(何処かに、絶対、ある筈なのに…)
気が付いたって手に入らないんだ、とそれが悔しい。
今の「シロエ」は、一介の候補生だから。
大賢者でも勇者でもなくて、此処を卒業出来る時さえ、まだ先だから…。
滅びの呪文・了
※シロエが幼い頃に見た映画のモデルは、もちろん『ラピュタ』。筋は忘れたようですけど。
機械には緊急停止のコマンドが無いと困る筈だ、と思った所から出来たお話。
そういうものがあったっけね、とシロエが緩ませた頬。
Eー1077の夜の個室で、突然、心の中に「それ」が浮かんで来た。
懐かしさと、遠く温かな日々と、微かな痛みを伴った記憶。
(…パパと一緒に見た映画なのか、それともママ…?)
大切な部分が思い出せないから、懐かしくても痛みが湧き上がって来る。
「もう、あの日には帰れないんだ」と、両親と故郷を失ったことを思い知らされるから。
まだ幼かった頃の記憶も、学校に通っていた頃の記憶も、共に危うい。
教師や友人、そういったものは覚えているのに、両親や家の記憶を失くした。
「大人になるには不要だから」と、成人検査で消し去られて。
思い出そうと努力してみても、自力ではどうすることも出来ない。
出来ることと言ったら、思い出せる記憶を懸命に手繰り寄せることだけ。
今夜も、それを試みていた。
ベッドに腰掛け、心の中を空っぽにして、魂だけを子供時代に飛ばして。
頭を掠める記憶の断片、泡沫のように浮かんでは消える、記憶を宿したシャボン玉たち。
膨らんだと思って掴む間も無く、シャボン玉たちは消えてゆく。
キラリと一瞬、虹色の光を放っただけで、儚く消える。
それでも追わずにはいられない。
シャボン玉たちの一つ一つが、大切な記憶を秘めているから。
上手く捕まえることが出来たら、懐かしい出来事を少しだけでも…。
(思い出すことが出来るんだものね…)
機械が残しておいた記憶なのだし、本当に欲しくて必要な記憶は、其処には無い。
そうだと充分、承知していても、やはり追い掛け、掴みたくなる。
どんな記憶が残っているのか、どんな思い出があったのか。
こうして「追い掛ける」ことをしなければ、それらは消えてしまうのだろう。
機械が改めて消去しなくても、自分自身が忘れていって。
不要な記憶を切り捨てるように、大切な筈のことを忘れて。
(そんなの、嫌だ…)
つまらないことでも忘れたくない、と追い掛けて掴んだ、今夜の小さなシャボン玉。
掴んでパチンと弾けた中には、「滅びの呪文」が入っていた。
幼かった日に見に行った映画、あるいは家で鑑賞したのか、そこまでは分からないけれど。
映画の筋は、今となっては思い出せない。
機械が消してしまったものか、幼すぎて忘れてしまったのかも、定かではない。
(…その頃のぼくは、とても小さいみたいだから…)
自分で忘れちゃったのかな、と残念だけれど、幼いなら仕方ないだろう。
それも「思い出」の一つではある。
「せっかく楽しい映画を見たのに、どんな話か忘れちゃった」という失敗談。
幼い子供にありがちなことで、機械は介在していない。
(そういうことなら、思い出せなくても…)
かまわないよね、と大きく頷く。
此処に両親がいたとしたって、「シロエ」を責めはしないだろう。
父ならば、きっと苦笑しながら頭を撫でてくれると思う。
「おやおや、忘れちゃったのかい?」と、「とても喜んでいたんだがね」と。
母にしたって、「あらまあ…」と少し驚いた後で、クスクス笑うに違いない。
「勉強のために使う頭と、そういう頭は違うみたいね」と、可笑しそうに。
(…うん、きっとそう…)
だからいいんだ、と映画の筋は、どうでもいい。
大切なのは「滅びの呪文」という言葉を思い出したこと。
(映画の中で、それを唱えたら…)
古の王国が崩れ始めて、瞬く間に滅びていった。
誰も滅ぼすことの出来ない、恐ろしい力を持っていたのに、呆気なく。
内側からバラバラと分解されて、戦力も全て失われて。
(映画の他にも、色々なヤツがあったっけ…)
すっかり忘れてしまってたけど、と次々に「滅びの呪文」が心に浮かび上がって来る。
夢中で遊んだゲームの中にも、それは鏤められていた。
(絶対勝てない、っていう敵を相手に…)
大賢者が命を捨てて唱えるとか、勇者が危険を冒して呪文を手に入れるとか。
そうした「滅びの呪文」を使えば、敵はたちまち滅びてしまう。
映画に出て来た古の王国、それが崩壊したように。
どんなに強い敵であろうと、「滅びの呪文」に勝つことは出来ない。
(呪文は、忘れちゃったけど…)
あったんだよね、と、懐かしい思い出が一つ蘇った。
幼かった頃の映画の記憶と、故郷で遊んだゲームたちと。
(…呪文まで思い出すっていうのは…)
流石に無理かな、と頭をトントンと叩く。
機械が消去していなくても、自分自身が忘れてしまっていそうな「呪文」。
学校で新たな知識を得たなら、そちらの方が新鮮だから。
「もっと勉強しなくっちゃ」と、知識を増やしてゆきくなって。
(…そうなっちゃったら、ゲームなんかより…)
ゲームを作る仕組みの方とか、そちらに関心を抱いただろう。
エネルゲイアは、技術系のエキスパートを育成するのが目的だった育英都市だから。
(ぼくでもゲームを作れるのかも、って…)
思い始めたら、もう止まらない。
あれこれ調べて、本を読み込んで、勉強する間に「つまらないこと」は忘れてしまう。
ゲームに出て来た呪文などより、本物の「呪文」が重要だから。
様々なゲームを構成している、門外漢には全く意味の掴めない無数の「呪文」たち。
それを覚えて使いこなせば、ゲームを作るだけではなくて…。
(ああいう端末だって作れて…)
自分で好きにカスタマイズが出来るんだよね、とチラリと机の上を眺めた。
其処に置かれた携帯用の端末、此処で自作した小型のコンピューター。
マザー・イライザとは繋がっていない、安心して使える「シロエだけの」もの。
他の候補生たちも、携帯用の端末はもちろん持っている。
シロエにも配布されたけれども、けして愛用してなどはいない。
(…使えば、全部、マザー・イライザに…)
情報が届いて、どう使ったかも知られてしまう、スパイのような代物なのだから。
(おまけに、うんと単純すぎて…)
ハッキングとかも出来ない仕組みだ、と端末の出来には笑うしかない。
自作も出来る者から見たなら、子供だましのオモチャ並み。
とても単純な仕組みになっているのに、使いこなせない候補生だって大勢いる。
(普通に使えている間ならば、何も問題無いけれど…)
端末がエラーを引き起こした時、対処出来ない者たちは多い。
「壊れました」と慌てふためいて、修理して貰おうと走る者たち。
ちょっと弄ってやりさえすれば、エラーくらいは直るのに。
ごくごく初歩の初歩の呪文で、きちんと動き始めるのに。
「馬鹿な奴らだ」と思うけれども、知識が無いのも当然だろう。
彼らが故郷で受けた教育と、エネルゲイアでのそれは大きく異なる。
「シロエ」にとっては当たり前でも、彼らは「呪文」を学んではいない。
学んでいない者に向かって「使え」と言っても、無茶な注文というものだと分かる。
勇者も大賢者も、「滅びの呪文」を努力して手に入れていた。
大賢者は長く学び続けて、勇者は冒険の旅を続けて。
並みの人間には不可能なことを成し遂げた末に、ようやく「呪文」を知ることが出来る。
(端末用に使う呪文は、滅びの呪文みたいに危険な呪文じゃないけどね…)
一般人が知っていたって、何の問題も無いんだけれど、と思いはしても、知識は別。
そのための学びをしていなければ、呪文に触れる機会さえ無い。
機会が無ければ、興味を抱きもしないだろう。
端末の仕組みがどうなっているか、エラーが出たなら、どうやって修復するのかにも。
(…此処はメンバーズ・エリートを目指す場所だし、その内に…)
基本は叩き込まれるだろう。
単独で任務に出掛けた先では、修理も自分でせねばならない。
任務の途中で事故に遭ったりして、一人きりになってしまった時でも状況は同じ。
(壊れてどうにもならないんです、って叫んでたって…)
誰も修理に来てくれないから、自力で直すことが出来なかったら、もうおしまい。
(それじゃ困るし、基本は覚えるしかないだろうけど…)
もっと学ぼうって奴は多分いないね、と鼻で笑って、ハタと気付いた。
「マザー・イライザだって、機械じゃないか」と。
Eー1077を支配し、君臨してはいるのだけれども、正体は巨大なコンピューター。
つまりは、機械。
地球にいると聞くグランド・マザーも、SD体制の世界を統治しているけれど…。
(…やっぱり、機械に過ぎないわけで…)
元は人間が作った「モノ」。
「シロエ」が自作した携帯用の端末、それと全く変わりはしない。
その性能がずば抜けて高く、「シロエ」如きに作れはしない、というだけのこと。
違う部分は性能だけで、「人間が作った機械」な事実は、何処も違いはしないのだ。
(…マザー・イライザも、グランド・マザーも、人間が作った機械なら…)
それを構成している呪文は、恐らく、「シロエ」も知っているもの。
細かく切り分けて分析したなら、「なるほど」と理解可能な部分もあるだろう。
(そして、人間が作ったんなら…)
滅びの呪文が、必ず設けられている筈。
崩壊させるための呪文ではなくて、停止させるために設置するモノ。
(端末がエラーを起こすみたいに…)
マザー・コンピューターが、けしてエラーを起こさないとは言い切れない。
自動修復機能があっても、それが万全とは言えないことなど、機械を作る者には常識。
(…マザー・イライザにも、グランド・マザーにも…)
緊急停止のコマンドは「絶対に」あるし、組み込まれている。
誰がいつ、それを行使するかは、最高機密で、ごく一握りの者だけが知っている呪文。
メンバーズ・エリートになった者でも、その生涯に出会えるかどうか。
(……滅びの呪文ね……)
それが分かれば、何もかも一瞬で終わらせるのに、と唇を噛む。
「勇者になるしかないじゃないか」と、道のりの長さを思わされて。
厳しい冒険の旅を続けて、国家主席になれる時まで、呪文は手に入りそうもないから。
(何処かに、絶対、ある筈なのに…)
気が付いたって手に入らないんだ、とそれが悔しい。
今の「シロエ」は、一介の候補生だから。
大賢者でも勇者でもなくて、此処を卒業出来る時さえ、まだ先だから…。
滅びの呪文・了
※シロエが幼い頃に見た映画のモデルは、もちろん『ラピュタ』。筋は忘れたようですけど。
機械には緊急停止のコマンドが無いと困る筈だ、と思った所から出来たお話。
PR
(御用があったら呼んで下さい、か…)
呼ばれなくとも駆け付けるくせに、とキースは扉の方へ目を遣る。
たった今、其処から出て行った者は、もう見えない。
ジルベスター・セブン以来の忠実な側近、キース・アニアンに仕え続けるジョナ・マツカ。
「今夜は、もういい」と言われた通り、自分の部屋へ下がったのだろう。
国家騎士団総司令のために設けられた個室、それがある区画の部下のための部屋へ。
(…皮肉なものだな…)
一番の部下がミュウだとはな、とキースは視線を机に戻した。
マツカが淹れて行ったコーヒー、そのカップが湯気を立てている。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と、マツカは皆に揶揄されていた。
実際、そうとしか見えないのだから、仕方ない。
マツカが「キースの命を受けてしていること」は、ただ、コーヒーを淹れることだけ。
「コーヒーを頼む」と言われた時だけ、「はい」と返事して動くのだから。
(それ以外の用は、他の者たちがしているからな…)
マツカは彼らへの伝達係を務めるだけで、実務は何もこなしていない。
国家騎士団員だとはいえ、そのための教育は何一つ受けていないのだから。
(宇宙海軍の一兵卒では、やれと言われても、出来ない方が当然なのだが…)
他の部下たちは、そうは思っていない。
キース自ら選んだ側近、しかも宇宙海軍からの転属という破格の昇進がマツカの経歴。
「もっと役に立つ筈なのに、何故」と、冷ややかにマツカを眺めている。
「閣下の見込み違いだったか」と、「能無し野郎」の烙印を押して。
(気付けという方が無理な話で…)
マツカの正体を知らないのだし、と分かってはいても、苦笑が漏れる。
「お前たちより、よほど役に立つ部下なのだが」と。
「私の命を何度救ったか、お前たちは何も知らないだけだ」と。
マツカがミュウでなかったならば、不可能だった救出劇は数知れない。
ジルベスター・セブンからの脱出に始まり、今も功績は増え続けている。
「キース・アニアン」の暗殺計画が、次から次へと立てられるせいで。
移動経路に爆弾が仕掛けられたり、いきなり銃撃されたりもした。
それらをマツカは全て防いで、キースの命を守り続ける。
他の部下たちは何も知らずに、「閣下はとても強運だから」と、いつも称賛しているけれど。
加えて自分たちの働き、機敏に動いて「閣下をお守りしているのだ」と誇りに思って。
勘違いされている、ジョナ・マツカ。
コーヒーを淹れることしか出来ない、「能無し野郎」。
(美味いコーヒーを淹れているのも、また事実だが…)
他の奴らではこうはいかん、とキースはコーヒーのカップを傾ける。
「これも才能の一つではある」と、絶妙な苦味を味わいながら。
マツカに命を救われた後に、何度、彼が淹れたコーヒーを飲んだだろうか。
「どうぞ」と差し出される湯気の立つカップ、その度に何処かホッとする自分を知っている。
けして顔には出さないけれども、「また生き延びた」と心に湧き上がるものは…。
(……感謝の気持ちと言うのだろうな)
マツカに伝えたことは無いが、と頬が微かに緩む。
「私にだって、感情はある」と。
「サムにしか向けていないようでも、確かにあるのだ」と。
その有能な「マツカ」のお蔭で、命を拾って、美味いコーヒーも飲める。
マツカがミュウであるからこそで、彼が人類なら、こうはいかない。
「キース・アニアン」は、とうの昔に殺されているか、失脚していたことだろう。
暗殺計画を防ぐことが出来ずに、犠牲になって。
あるいは命は助かったものの、任務を続けることが出来ない身体にされて。
(そうはならずに、この先も生きていけそうだが…)
問題はミュウの侵攻だな、と思考をそちらに向けた瞬間、ハタと気付いた。
人類の宿敵、今も進軍中のミュウ。
彼らと相対している自分は、対ミュウ戦略の筆頭と目されているけれど…。
(そもそも私が、ミュウの巣から生きて逃げ延びられたのは…)
マツカが助けに来たからこそで、そのマツカは、元は暗殺者だった。
暗殺者の顔をしてはいなくて、気の弱い「ただのミュウ」だったけれど。
ソレイド軍事基地に隠れて、ひっそりと生きていたミュウの青年。
(私が、あそこに行かなかったら…)
マツカは自分が「ミュウ」だとも知らず、虐げられて今もソレイドにいただろう。
何の役にも立たない上に、気が弱く、身体も弱い「軍人」などに価値は無い。
きっと役職なども貰えず、下手をしたなら…。
(掃除係にされていたかもしれないな…)
実にありそうな結末だ、と司令官だったグレイブの姿を思い浮かべる。
「奴なら、そうする」と、「使えない者など、左遷だろう」と。
あのままソレイドに残っていたなら、掃除係になりそうなマツカ。
ところが、彼がソレイドで仕出かしたことは、立派な暗殺計画そのもの。
未遂に終わって、暗殺対象だった「キース」に抜擢されて、今は暗殺を防ぐのが役目。
有能な部下になっているけれど、元々、マツカは「暗殺者」なのだ。
自分の命を守るためにと、「キース・アニアン」を殺そうとした。
それはあまりにも無謀に過ぎて、失敗に終わったマツカの企て。
殺されかけたキースの方でも、「愚かな」と、せせら笑ったくらいに無謀。
優位に立って、「後ろに立つな」と銃で脅して、いい気になっていたのだけれど…。
(…あの時、マツカが、もっと追い詰められていたなら…)
サイオン・バーストを起こすくらいの状態だったら、結果は違っていただろう。
今の今まで、全く思いもしなかったけれど、マツカの潜在能力は高い。
(……私を、メギドの制御室から助け出した時……)
マツカは確かに、瞬間移動をしてのけた。
そんな力は、タイプ・ブルーにしか無い筈なのに。
更に言うなら、マツカは「必死になっていた」だけで、暴走状態ではなかったのに。
(…サイオン・バーストの寸前だったら、他のミュウでも有り得るのかもしれないが…)
そうでもないのに、マツカは凄まじい能力を見せた。
彼が「暗殺者」の顔だった時に、同じ力を発揮していたら…。
(……私の命は、其処で終わっていたな……)
間違いなく殺されていたことだろう、と背筋がゾクリと冷たくなる。
「私は運が良かっただけか」と、今頃になって思い知らされた。
運良く「たまたま」助かっただけで、「死んでいたかもしれないのだ」と。
もしも、あそこで「キース・アニアン」がマツカに殺されていたら…。
(…その後の歴史は、今とは全く違ったものに…)
なったことだろう、と恐ろしくなる。
ジルベスター・セブンは焼かれることなく、ミュウは生き延びたに違いない。
そしてあそこを拠点に据えて、地球への侵攻を始めただろう。
そうなった時も、キースの暗殺に成功したマツカは、あのソレイドで…。
(いつミュウどもが攻めて来るのか、日々、怯えながら…)
掃除係をやっているのだ、と容易に想像がつく。
自分がミュウだと知らないのだから、「ぼくは生き延びられるだろうか」とビクビクして。
マツカが「キース」を殺したとしても、誰も「マツカ」の仕業などとは思わない。
ジルベスター・セブンの調査にやって来たキースは、突然死として片付けられたことだろう。
心臓発作を起こして死んで、マツカがそれを発見した、と上層部に報告されるだけ。
(…いくらグランド・マザーであっても、こればかりはな…)
どうすることも出来はしなくて、代わりの者を派遣するより他はない。
「キースにしか、ミュウの相手は出来ない」と承知していても、死人に任務の遂行は不可能。
他の誰かを選ぶしかなく、選ばれた者には、キースと同じ働きなど出来ない上に…。
(マツカの助けも、ありはしなくて…)
あえなく戦死を遂げてしまって、ミュウは直ちに反撃に出る。
自分たちの拠点を知られた以上は、先手必勝。
ジルベスター・セブンが焼かれていないのであれば、戦力は充分、持っている筈。
なんと言っても、九人ものタイプ・ブルーがいるのが、ミュウたちの船。
伝説のタイプ・ブルー・オリジンまでが健在、これでは人類に勝ち目など無い。
(…おまけに、拠点が無傷なのだし…)
あの厄介なタイプ・ブルーが、もっと増える可能性もある。
自然出産の効率がいくら悪くても、生まれて来る子がタイプ・ブルーであったなら…。
(効率以前の問題だ…)
生まれた子供は全て戦力、並みのミュウとは比較にならない力の持ち主。
一人増えただけでも、艦隊一つを破壊することが出来るだろう。
艦隊どころか、星さえ落とせるかもしれない。
そんなミュウたちが押し寄せて来ても、「キース」の代わりはいないのだから…。
(…人類は降伏する以外には…)
道が無いな、とキースは溜息をつく。
「あの実験は私で終わりになっていたし」と、「次の者など用意していない」と。
そして人類が負け戦を戦い続ける間に、ソレイドも陥落することだろう。
マツカは「ミュウ」が何者なのかも知らずに、怯えながら基地の掃除を続けて…。
(ミュウどもの船が攻めて来た時、かつて自分を苛めた誰かが…)
砲撃を受けて吹っ飛ぶ所を、命を捨てて守りそうだ、と心から思う。
「だからこそ今、マツカは此処にいるのだ」と、「そういう心の持ち主だから」と。
ソレイドを落としたミュウたちの方は、そんなマツカに気付くだろうか。
人類を庇って死んでいったミュウ、悲しいまでに優しい者に。
自分がミュウだったことも知らずに、人類の中で生きていたミュウが存在したことに。
(…それにマツカは、ジルベスター・セブンを「キース」から救った…)
真の英雄だったのだがな、と思うけれども、歴史はそちらへ進まなかった。
マツカは「キース」を殺し損ねて、「キース」に仕え続けているから。
ミュウの英雄だったと気付かれる日も、讃えられる時も来ないのだから…。
気弱な暗殺者・了
※キースがソレイドにやって来た時、マツカに返り討ちにされていたら、と思ったわけで。
アニテラのマツカなら、能力的にも有り得た筈。歴史は確実に変わってましたね…。
呼ばれなくとも駆け付けるくせに、とキースは扉の方へ目を遣る。
たった今、其処から出て行った者は、もう見えない。
ジルベスター・セブン以来の忠実な側近、キース・アニアンに仕え続けるジョナ・マツカ。
「今夜は、もういい」と言われた通り、自分の部屋へ下がったのだろう。
国家騎士団総司令のために設けられた個室、それがある区画の部下のための部屋へ。
(…皮肉なものだな…)
一番の部下がミュウだとはな、とキースは視線を机に戻した。
マツカが淹れて行ったコーヒー、そのカップが湯気を立てている。
「コーヒーを淹れることしか出来ない、能無し野郎」と、マツカは皆に揶揄されていた。
実際、そうとしか見えないのだから、仕方ない。
マツカが「キースの命を受けてしていること」は、ただ、コーヒーを淹れることだけ。
「コーヒーを頼む」と言われた時だけ、「はい」と返事して動くのだから。
(それ以外の用は、他の者たちがしているからな…)
マツカは彼らへの伝達係を務めるだけで、実務は何もこなしていない。
国家騎士団員だとはいえ、そのための教育は何一つ受けていないのだから。
(宇宙海軍の一兵卒では、やれと言われても、出来ない方が当然なのだが…)
他の部下たちは、そうは思っていない。
キース自ら選んだ側近、しかも宇宙海軍からの転属という破格の昇進がマツカの経歴。
「もっと役に立つ筈なのに、何故」と、冷ややかにマツカを眺めている。
「閣下の見込み違いだったか」と、「能無し野郎」の烙印を押して。
(気付けという方が無理な話で…)
マツカの正体を知らないのだし、と分かってはいても、苦笑が漏れる。
「お前たちより、よほど役に立つ部下なのだが」と。
「私の命を何度救ったか、お前たちは何も知らないだけだ」と。
マツカがミュウでなかったならば、不可能だった救出劇は数知れない。
ジルベスター・セブンからの脱出に始まり、今も功績は増え続けている。
「キース・アニアン」の暗殺計画が、次から次へと立てられるせいで。
移動経路に爆弾が仕掛けられたり、いきなり銃撃されたりもした。
それらをマツカは全て防いで、キースの命を守り続ける。
他の部下たちは何も知らずに、「閣下はとても強運だから」と、いつも称賛しているけれど。
加えて自分たちの働き、機敏に動いて「閣下をお守りしているのだ」と誇りに思って。
勘違いされている、ジョナ・マツカ。
コーヒーを淹れることしか出来ない、「能無し野郎」。
(美味いコーヒーを淹れているのも、また事実だが…)
他の奴らではこうはいかん、とキースはコーヒーのカップを傾ける。
「これも才能の一つではある」と、絶妙な苦味を味わいながら。
マツカに命を救われた後に、何度、彼が淹れたコーヒーを飲んだだろうか。
「どうぞ」と差し出される湯気の立つカップ、その度に何処かホッとする自分を知っている。
けして顔には出さないけれども、「また生き延びた」と心に湧き上がるものは…。
(……感謝の気持ちと言うのだろうな)
マツカに伝えたことは無いが、と頬が微かに緩む。
「私にだって、感情はある」と。
「サムにしか向けていないようでも、確かにあるのだ」と。
その有能な「マツカ」のお蔭で、命を拾って、美味いコーヒーも飲める。
マツカがミュウであるからこそで、彼が人類なら、こうはいかない。
「キース・アニアン」は、とうの昔に殺されているか、失脚していたことだろう。
暗殺計画を防ぐことが出来ずに、犠牲になって。
あるいは命は助かったものの、任務を続けることが出来ない身体にされて。
(そうはならずに、この先も生きていけそうだが…)
問題はミュウの侵攻だな、と思考をそちらに向けた瞬間、ハタと気付いた。
人類の宿敵、今も進軍中のミュウ。
彼らと相対している自分は、対ミュウ戦略の筆頭と目されているけれど…。
(そもそも私が、ミュウの巣から生きて逃げ延びられたのは…)
マツカが助けに来たからこそで、そのマツカは、元は暗殺者だった。
暗殺者の顔をしてはいなくて、気の弱い「ただのミュウ」だったけれど。
ソレイド軍事基地に隠れて、ひっそりと生きていたミュウの青年。
(私が、あそこに行かなかったら…)
マツカは自分が「ミュウ」だとも知らず、虐げられて今もソレイドにいただろう。
何の役にも立たない上に、気が弱く、身体も弱い「軍人」などに価値は無い。
きっと役職なども貰えず、下手をしたなら…。
(掃除係にされていたかもしれないな…)
実にありそうな結末だ、と司令官だったグレイブの姿を思い浮かべる。
「奴なら、そうする」と、「使えない者など、左遷だろう」と。
あのままソレイドに残っていたなら、掃除係になりそうなマツカ。
ところが、彼がソレイドで仕出かしたことは、立派な暗殺計画そのもの。
未遂に終わって、暗殺対象だった「キース」に抜擢されて、今は暗殺を防ぐのが役目。
有能な部下になっているけれど、元々、マツカは「暗殺者」なのだ。
自分の命を守るためにと、「キース・アニアン」を殺そうとした。
それはあまりにも無謀に過ぎて、失敗に終わったマツカの企て。
殺されかけたキースの方でも、「愚かな」と、せせら笑ったくらいに無謀。
優位に立って、「後ろに立つな」と銃で脅して、いい気になっていたのだけれど…。
(…あの時、マツカが、もっと追い詰められていたなら…)
サイオン・バーストを起こすくらいの状態だったら、結果は違っていただろう。
今の今まで、全く思いもしなかったけれど、マツカの潜在能力は高い。
(……私を、メギドの制御室から助け出した時……)
マツカは確かに、瞬間移動をしてのけた。
そんな力は、タイプ・ブルーにしか無い筈なのに。
更に言うなら、マツカは「必死になっていた」だけで、暴走状態ではなかったのに。
(…サイオン・バーストの寸前だったら、他のミュウでも有り得るのかもしれないが…)
そうでもないのに、マツカは凄まじい能力を見せた。
彼が「暗殺者」の顔だった時に、同じ力を発揮していたら…。
(……私の命は、其処で終わっていたな……)
間違いなく殺されていたことだろう、と背筋がゾクリと冷たくなる。
「私は運が良かっただけか」と、今頃になって思い知らされた。
運良く「たまたま」助かっただけで、「死んでいたかもしれないのだ」と。
もしも、あそこで「キース・アニアン」がマツカに殺されていたら…。
(…その後の歴史は、今とは全く違ったものに…)
なったことだろう、と恐ろしくなる。
ジルベスター・セブンは焼かれることなく、ミュウは生き延びたに違いない。
そしてあそこを拠点に据えて、地球への侵攻を始めただろう。
そうなった時も、キースの暗殺に成功したマツカは、あのソレイドで…。
(いつミュウどもが攻めて来るのか、日々、怯えながら…)
掃除係をやっているのだ、と容易に想像がつく。
自分がミュウだと知らないのだから、「ぼくは生き延びられるだろうか」とビクビクして。
マツカが「キース」を殺したとしても、誰も「マツカ」の仕業などとは思わない。
ジルベスター・セブンの調査にやって来たキースは、突然死として片付けられたことだろう。
心臓発作を起こして死んで、マツカがそれを発見した、と上層部に報告されるだけ。
(…いくらグランド・マザーであっても、こればかりはな…)
どうすることも出来はしなくて、代わりの者を派遣するより他はない。
「キースにしか、ミュウの相手は出来ない」と承知していても、死人に任務の遂行は不可能。
他の誰かを選ぶしかなく、選ばれた者には、キースと同じ働きなど出来ない上に…。
(マツカの助けも、ありはしなくて…)
あえなく戦死を遂げてしまって、ミュウは直ちに反撃に出る。
自分たちの拠点を知られた以上は、先手必勝。
ジルベスター・セブンが焼かれていないのであれば、戦力は充分、持っている筈。
なんと言っても、九人ものタイプ・ブルーがいるのが、ミュウたちの船。
伝説のタイプ・ブルー・オリジンまでが健在、これでは人類に勝ち目など無い。
(…おまけに、拠点が無傷なのだし…)
あの厄介なタイプ・ブルーが、もっと増える可能性もある。
自然出産の効率がいくら悪くても、生まれて来る子がタイプ・ブルーであったなら…。
(効率以前の問題だ…)
生まれた子供は全て戦力、並みのミュウとは比較にならない力の持ち主。
一人増えただけでも、艦隊一つを破壊することが出来るだろう。
艦隊どころか、星さえ落とせるかもしれない。
そんなミュウたちが押し寄せて来ても、「キース」の代わりはいないのだから…。
(…人類は降伏する以外には…)
道が無いな、とキースは溜息をつく。
「あの実験は私で終わりになっていたし」と、「次の者など用意していない」と。
そして人類が負け戦を戦い続ける間に、ソレイドも陥落することだろう。
マツカは「ミュウ」が何者なのかも知らずに、怯えながら基地の掃除を続けて…。
(ミュウどもの船が攻めて来た時、かつて自分を苛めた誰かが…)
砲撃を受けて吹っ飛ぶ所を、命を捨てて守りそうだ、と心から思う。
「だからこそ今、マツカは此処にいるのだ」と、「そういう心の持ち主だから」と。
ソレイドを落としたミュウたちの方は、そんなマツカに気付くだろうか。
人類を庇って死んでいったミュウ、悲しいまでに優しい者に。
自分がミュウだったことも知らずに、人類の中で生きていたミュウが存在したことに。
(…それにマツカは、ジルベスター・セブンを「キース」から救った…)
真の英雄だったのだがな、と思うけれども、歴史はそちらへ進まなかった。
マツカは「キース」を殺し損ねて、「キース」に仕え続けているから。
ミュウの英雄だったと気付かれる日も、讃えられる時も来ないのだから…。
気弱な暗殺者・了
※キースがソレイドにやって来た時、マツカに返り討ちにされていたら、と思ったわけで。
アニテラのマツカなら、能力的にも有り得た筈。歴史は確実に変わってましたね…。
十五年。
そう言われても、まるで実感が無い。
そんなに長く眠っていたというのか、ぼくは…?
けれど確かに、そうなのだろう。
星の瞬きのように一瞬だった、ぼくにとっての十五年。
目を閉じて眠って、そして目覚めたら、世界はまるで違っていた。
そもそも、ぼくを「起こした」人間、その存在が既に、このシャングリラの中では異物。
(皮肉なものだな…)
ぼくを眠りから引き戻した者、「此処」では「異物」だった人間。
その人間は、ミュウを「異分子」と呼んだ。
彼にとっては、ミュウこそが異物なのだから。
(どちらが異物か、それは歴史が決めるのだろうが…)
結果が出るのを、ぼくは見届けることは出来ない。
ぼくの目覚めには必然があって、役目を果たさなくてはならない。
残り僅かな命を使って、シャングリラを、仲間を守らなくては。
出来るものなら、この肉眼で地球を見たかった。
眠りに落ちるよりも前から、ずっとそういう夢を見ていた。
けして叶わないと分かってはいても、望まずにいられなかったけれども…。
(今のぼくには、地球よりも、ずっと…)
この目で見てみたい「未来」が出来た。
「地球の男」、キース・アニアンが人質に取っていた、小さなトォニィ。
自然出産で生まれたと聞いた、ミュウの未来を継ぐだろう子供。
あのトォニィが育ってゆくのを、彼と同じに生まれた子たちが育つ姿を見たい。
長い年月、夢に見て来た、青く輝く地球よりも、ミュウの未来を側で見たいと願ってしまう。
そんなこと、出来はしないのに。
本当に残り少ない命を「捨てて」彼らを守らない限り、トォニィたちも消えてしまうのに。
まさか、人生の終わり近くに、夢が出来るとは思わなかった。
焦がれ続けた青い地球より、この目で見たい「もの」が生まれるとは。
そう、文字通りに、彼らは「生まれた」。
SD体制が始まって以来、初めての自然出産児として。
人工子宮ではなく、母の胎内で育ち、赤い星、ナスカで生を享けて。
青い地球より、眩しく輝く「新しい命」。
ミュウの未来を紡いでくれる、思いもしなかった子供たち。
彼らを、ずっと見ていたいけれど、その夢は、けして叶いはしない。
この夢を「命」ごと捨ててゆくこと、それが目覚めた「ぼく」の務めだから。
(…十五年か…)
眠ってしまっていたのが、とても惜しいけれども、夢が出来たからいいだろう。
叶わない夢でも、新しい夢を心に持つことが出来たから。
(ありがとう、ジョミー…)
あの子供たちを、この世に生み出してくれて。
思いがけないミュウの未来を、新しい夢を、このぼくにくれて。
「ありがとう」と、君に言える時間が、それがあればいいと思うけれども…。
(…そればかりは、地球の男次第か…)
彼がナスカに戻って来るまでに、ぼくの命が燃え尽きる前に、ほんの少しの時間が欲しい。
新しい夢が叶わないのは、充分に承知しているから。
地球よりも、ずっと見たい「未来」は、この目で見届けられないから。
(せめて、ジョミーに…)
「ありがとう」と言える時間があったらいい、と、願うことくらい許されるだろう。
その願いが叶わずに終わったとしても、悔いなどは無い。
あの子供たちを守れるのならば、それだけでいいと思ってしまう。
ぼくには、新しい夢が出来たから。
青い地球よりも「見たくなったもの」を、命と引き換えに守れるから。
だから…。
ジョミー、君たちは、未来を生きていって欲しい。
それにトォニィ、他の子たちも、どうか元気で。
君たちが生きて未来を紡いでゆくのを、ぼくは心から祈り続ける。
ぼく自身の夢は叶わなくても、それでいいから。
君たちが地球へ、未来へと歩んでゆくのが、ぼくの「新しい夢」なのだから…。
青い地球よりも・了
※ブルー追悼作品、「来年は書かずに済むことを希望」と昨年、言ったわけですが。
コロナ禍も、第7波とか言われる割には、さほど騒がれなくなったのですが…。
アニテラでブルーが眠り続けたのと同じ年数、15年が経ったのが今年なのです。
「節目の年だし、書いておくかな」というわけで、2022年7月28日記念作品。
作中のブルーの夢は叶いませんでしたけど、最後の願いが叶ったのは、皆様ご存じの通り。
(成人検査では、機械が記憶を消すけれど…)
今だって、消され続けているけれど、とシロエが睨み付けた先。
Eー1077で与えられた個室は、マザー・イライザに監視されている。
部屋にいる時は、恐らく、常に。
普段は何も起こらなくても、心を乱せば、彼女の幻影が現れるから。
「どうしました?」と、猫なで声で。
さっきも、そんな風に出て来て、優し気な笑みを湛えていた。
「迷いがあるなら、導きましょう」と、「いつでも、待っていますからね」と。
慈母の言葉のようだけれども、それは警告。
心が乱れたままでいたなら、たちまちコールされるだろう。
(…コールされたら、ぼくの中から、また何か…)
大切な記憶が消えていくんだ、と唇を強く噛み締める。
「ぼくは嫌だ」と、「忘れたくない」と。
(あれが、機械のやり口で…)
このステーションで暮らす候補生たちは、おとなしい羊にされてゆく。
成人検査でも消えずに残った、「機械に都合の悪い記憶」を消去されて。
反抗心を消され、牙を抜かれて、無害な子羊になってゆくけれど…。
(…あんな機械が出来る前から…)
人間の記憶は、消えてしまうことがあったんだよね、と思考を別の方へと向ける。
そうすれば、心が落ち着くから。
憎い機械を忘れてしまえば、心を乱さないで済むから。
(コールなんか、されてたまるもんか)
今回は無事に逃げてみせるさ、とマザー・イライザの幻影も心から切り捨てた。
そうしておいたら、思い出さずにいられて、心が波立つこともなくなる。
一種の現実逃避とはいえ、有効な手段であることは、既に経験済み。
(……心の中では、何を考えるのも自由だしね?)
それにコールもされやしないし、とクスリと笑う。
「ぼくは自由だ」と、「機械なんかに、簡単に支配されやしないよ」と。
そうは思っても、逆らえずに消されてしまった記憶。
成人検査でゴッソリ失くして、その後も、かなり消えたと思う。
なんとも憎い機械だけれども、機械が関与しなくても…。
(……記憶喪失……)
遠い昔から、そういう病があるらしい。
文字通り、記憶を失う病気。
病気と呼んでいいのかどうかは、医者ではないから、分からないけれど。
(大きなショックが引き金になって…)
頭の中から、記憶がストンと抜け落ちるのが、記憶喪失。
何もかも消えてしまうケースも、一部だけというケースもある。
(自分の名前も忘れてしまって、別人になって…)
知り合いにも見付けて貰えないまま、家から遠く離れた所で、長く暮らした例なども。
つまり、機械が関わらなくても…。
(…人間の脳は、何かのショックで…)
記憶を手放してしまう構造になっている。
そして、失くしてしまった記憶は…。
(…消えてしまったままで、戻らないこともあるけれど…)
記憶を失くした時と同じに、突然、戻ったりもする。
もちろん機械は何もしないし、治療の成果というわけでもない。
記憶が戻って来る仕組み自体も、今の時代でも、ハッキリ解明されてはいない。
(…精神的にショックを受けたり、同じような事故に遭ったりして…)
その衝撃で戻ることが多い、と言われてはいても、同じことをしても駄目な場合もある。
人間の脳はデリケートだから、計算通りにはいかないらしい。
機械が記憶を消したり植えたり、そういうことは容易く出来る世の中でも。
成人検査で記憶を消すのが、当たり前になっている時代でも。
(…機械は、まだまだ、人間に敵いやしないってね)
記憶喪失の患者も治せないようじゃ、とクッと喉を鳴らした。
「人間様の方が、ずっと上だよ」と、「機械も、人間が作ったんだから」と。
今も機械が「どうにも出来ない」、記憶喪失。
人間の脳は複雑すぎて、機械といえども、隅々までは把握出来ないから。
(…でもって、記憶を失くした人が…)
記憶を取り戻すことがあるなら、自分にも起こり得るかもしれない。
機械が消してしまった記憶が、記憶喪失の人と同じに…。
(何かのショックで、ある日、いきなり…)
全て戻って来る可能性だって、けしてゼロではないだろう。
機械によって「意図的に」引き起こされたものであっても、今の自分は…。
(昔だったら、記憶喪失みたいなもので…)
子供時代の記憶が欠落していて、両親の顔なども朧げなもの。
その状態で「大きなショック」を受けたら、その衝撃で…。
(思い出すかもしれないよね?)
故郷のこととか、パパとママの顔を、と顎に当てる手。
「出来るのかも」と、「有り得ないことでは、ないと思う」と。
もしも記憶が戻って来たなら、どんなに嬉しいことだろう。
どう頑張っても思い出せない大切な過去が、この手に戻って来たならば。
記憶喪失の人が「再び思い出す」ように、自分も思い出せたなら。
(…訓練の途中で、大事故に遭って…)
目の前が真っ暗になってしまって、ふと目覚めたら、頭の中に戻っている記憶。
Eー1077の医療センターの、ベッドの上で目を覚ましたら…。
「パパとママは、何処?」と、此処にはいない両親の姿を、探し求めるのに違いない。
記憶が戻って来ているのだから、一番に探すのは、誰よりも頼りになる両親。
(…でも、パパもママも、いなくって…)
ベッドも家のベッドではなくて、まるで全く違う場所。
それに気付いたら、とても悲しくなるだろうけれど…。
(…思い出せたんだ、って嬉しい気持ちも…)
きっと心で弾けると思う。
「ぼくの記憶が戻って来たよ」と、「パパとママの顔も思い出せたよ」と。
懐かしい故郷の風景だって、鮮やかに蘇っていることだろう。
今は全く思い出せない、家に帰ってゆくための道も。
(…ぼくの記憶が戻ったことを…)
マザー・イライザに気付かれたならば、全て、振り出しに戻ってしまう。
此処には、憎い成人検査用の機械、テラズ・ナンバー・ファイブは「いない」けれども…。
(……マザー・イライザだったら、アレと同じに……)
もう一度「成人検査」を施し、「シロエの記憶」を消すことだろう。
「偶然、取り戻してしまった記憶」は、機械にとっては「不要なもの」。
SD体制のシステムに向かない、不都合な「それ」。
だから「消す」のが「彼女」の役目で、元の通りに消されてしまう。
此処へ連れて来られた時と同じに、機械が残した記憶しか無い「シロエ」にされて。
(…そんなの、ぼくは御免だから…!)
機械にバレたら終わりだなんて、と肩をブルッと震わせた。
せっかく記憶が戻って来たのに、再び消されてしまうなんて、と。
(ぼくは、絶対に消させない…!)
バレないように、上手くやってみせる、と自信なら、ある。
意識を取り戻した直後だったら、「パパとママは?」と、キョロキョロしたって…。
(…しっかりと目が覚めたなら…)
自分が置かれた「今の状況」を、冷静に把握出来るだろう。
エリート候補生としての訓練、その数々は伊達ではない。
精神的にも鍛えられるから、意識が明瞭になるまでの時間も短い筈。
(そうしたら、直ぐに…)
朦朧としていた時の「自分の言動」、それらを「無かったことにする」。
医師や看護師が訝しんでいたら、「大丈夫、何でもありません」と。
「おかしなことでも言いましたか?」と、「少し、混乱していたようです」と。
(…今だって、夢を見ている時は…)
ちゃんと両親が出て来るのだから、意識を失くした間に「見ても」おかしくはない。
医師も看護師も、それで納得するだろう。
「両親の夢を見ていたんだな」と、「それで、探してしまったわけか」と。
まさか「記憶を取り戻した」なんて、彼らも、思いはしないだろう。
そんなケースは、きっと多くはないだろうから。
あったとしたって、その後の言動、それでアッサリ、バレるのが普通。
エリート候補生とは違う一般人なら、その場で咄嗟に「取り繕う」ことは出来ないから。
自分なら、上手くやれると思う。
運良く、記憶が戻った時は。
事故のショックで、過去の全てを思い出せたら。
(記憶が戻るくらいの事故なら、ぼくの身体も…)
酷いダメージを受けてしまって、もう「エリート候補生」は務まらないかもしれない。
足が片方、動かないとか、腕が一本、無かったりとか。
(それくらいで済めばいいけれど…)
重度の麻痺が残ってしまって、一生、車椅子かもしれない。
そういう身体になってしまったら、一般市民の道に行っても、制約を受けることだろう。
子供を育てる養父にはなれず、教師くらいしか出来ないだとか。
(でも、そうなっても…)
車椅子でしか動けなくても、腕が一本無くなっていても、きっと自分は後悔はしない。
「事故に遭う前に戻りたいよ」と、嘆く日々など、絶対に来ない。
車椅子の身になってしまっては、会いに行くことさえ叶わなくても…。
(…パパもママも、ちゃんと覚えているから…)
機械に知られてしまわないよう、隠し続けて生きるしかなくても、持っている記憶。
両親の顔も、故郷の家も、朧ではなくて、しっかりと。
子供時代の記憶さえあれば、息を引き取る時が来るまで、心は幸せに羽ばたいてゆける。
「シロエ」は「シロエ」に戻れたから。
二度と会うことは叶わなくても、懐かしい両親を鮮やかに思い出せるから。
(…もしも、そういう事故に遭ったら…)
幸せだよね、と思うけれども、こればかりは運。
けれど、記憶が戻ったならば…。
(ぼくは必ず、上手くやるよ)
また消すなんて、させやしない、と夢に見る未来。
身体の自由を奪われようとも、心が自由な方がいいから。
メンバーズになることは出来なくなっても、記憶が戻ってくれるのならば、と…。
思い出せたら・了
※SD体制の時代でも、サムを治すことは不可能。だったら、記憶喪失も、と思ったわけで…。
シロエの記憶が、勝手に戻ってしまう可能性もあるよね、という所から生まれたお話。
今だって、消され続けているけれど、とシロエが睨み付けた先。
Eー1077で与えられた個室は、マザー・イライザに監視されている。
部屋にいる時は、恐らく、常に。
普段は何も起こらなくても、心を乱せば、彼女の幻影が現れるから。
「どうしました?」と、猫なで声で。
さっきも、そんな風に出て来て、優し気な笑みを湛えていた。
「迷いがあるなら、導きましょう」と、「いつでも、待っていますからね」と。
慈母の言葉のようだけれども、それは警告。
心が乱れたままでいたなら、たちまちコールされるだろう。
(…コールされたら、ぼくの中から、また何か…)
大切な記憶が消えていくんだ、と唇を強く噛み締める。
「ぼくは嫌だ」と、「忘れたくない」と。
(あれが、機械のやり口で…)
このステーションで暮らす候補生たちは、おとなしい羊にされてゆく。
成人検査でも消えずに残った、「機械に都合の悪い記憶」を消去されて。
反抗心を消され、牙を抜かれて、無害な子羊になってゆくけれど…。
(…あんな機械が出来る前から…)
人間の記憶は、消えてしまうことがあったんだよね、と思考を別の方へと向ける。
そうすれば、心が落ち着くから。
憎い機械を忘れてしまえば、心を乱さないで済むから。
(コールなんか、されてたまるもんか)
今回は無事に逃げてみせるさ、とマザー・イライザの幻影も心から切り捨てた。
そうしておいたら、思い出さずにいられて、心が波立つこともなくなる。
一種の現実逃避とはいえ、有効な手段であることは、既に経験済み。
(……心の中では、何を考えるのも自由だしね?)
それにコールもされやしないし、とクスリと笑う。
「ぼくは自由だ」と、「機械なんかに、簡単に支配されやしないよ」と。
そうは思っても、逆らえずに消されてしまった記憶。
成人検査でゴッソリ失くして、その後も、かなり消えたと思う。
なんとも憎い機械だけれども、機械が関与しなくても…。
(……記憶喪失……)
遠い昔から、そういう病があるらしい。
文字通り、記憶を失う病気。
病気と呼んでいいのかどうかは、医者ではないから、分からないけれど。
(大きなショックが引き金になって…)
頭の中から、記憶がストンと抜け落ちるのが、記憶喪失。
何もかも消えてしまうケースも、一部だけというケースもある。
(自分の名前も忘れてしまって、別人になって…)
知り合いにも見付けて貰えないまま、家から遠く離れた所で、長く暮らした例なども。
つまり、機械が関わらなくても…。
(…人間の脳は、何かのショックで…)
記憶を手放してしまう構造になっている。
そして、失くしてしまった記憶は…。
(…消えてしまったままで、戻らないこともあるけれど…)
記憶を失くした時と同じに、突然、戻ったりもする。
もちろん機械は何もしないし、治療の成果というわけでもない。
記憶が戻って来る仕組み自体も、今の時代でも、ハッキリ解明されてはいない。
(…精神的にショックを受けたり、同じような事故に遭ったりして…)
その衝撃で戻ることが多い、と言われてはいても、同じことをしても駄目な場合もある。
人間の脳はデリケートだから、計算通りにはいかないらしい。
機械が記憶を消したり植えたり、そういうことは容易く出来る世の中でも。
成人検査で記憶を消すのが、当たり前になっている時代でも。
(…機械は、まだまだ、人間に敵いやしないってね)
記憶喪失の患者も治せないようじゃ、とクッと喉を鳴らした。
「人間様の方が、ずっと上だよ」と、「機械も、人間が作ったんだから」と。
今も機械が「どうにも出来ない」、記憶喪失。
人間の脳は複雑すぎて、機械といえども、隅々までは把握出来ないから。
(…でもって、記憶を失くした人が…)
記憶を取り戻すことがあるなら、自分にも起こり得るかもしれない。
機械が消してしまった記憶が、記憶喪失の人と同じに…。
(何かのショックで、ある日、いきなり…)
全て戻って来る可能性だって、けしてゼロではないだろう。
機械によって「意図的に」引き起こされたものであっても、今の自分は…。
(昔だったら、記憶喪失みたいなもので…)
子供時代の記憶が欠落していて、両親の顔なども朧げなもの。
その状態で「大きなショック」を受けたら、その衝撃で…。
(思い出すかもしれないよね?)
故郷のこととか、パパとママの顔を、と顎に当てる手。
「出来るのかも」と、「有り得ないことでは、ないと思う」と。
もしも記憶が戻って来たなら、どんなに嬉しいことだろう。
どう頑張っても思い出せない大切な過去が、この手に戻って来たならば。
記憶喪失の人が「再び思い出す」ように、自分も思い出せたなら。
(…訓練の途中で、大事故に遭って…)
目の前が真っ暗になってしまって、ふと目覚めたら、頭の中に戻っている記憶。
Eー1077の医療センターの、ベッドの上で目を覚ましたら…。
「パパとママは、何処?」と、此処にはいない両親の姿を、探し求めるのに違いない。
記憶が戻って来ているのだから、一番に探すのは、誰よりも頼りになる両親。
(…でも、パパもママも、いなくって…)
ベッドも家のベッドではなくて、まるで全く違う場所。
それに気付いたら、とても悲しくなるだろうけれど…。
(…思い出せたんだ、って嬉しい気持ちも…)
きっと心で弾けると思う。
「ぼくの記憶が戻って来たよ」と、「パパとママの顔も思い出せたよ」と。
懐かしい故郷の風景だって、鮮やかに蘇っていることだろう。
今は全く思い出せない、家に帰ってゆくための道も。
(…ぼくの記憶が戻ったことを…)
マザー・イライザに気付かれたならば、全て、振り出しに戻ってしまう。
此処には、憎い成人検査用の機械、テラズ・ナンバー・ファイブは「いない」けれども…。
(……マザー・イライザだったら、アレと同じに……)
もう一度「成人検査」を施し、「シロエの記憶」を消すことだろう。
「偶然、取り戻してしまった記憶」は、機械にとっては「不要なもの」。
SD体制のシステムに向かない、不都合な「それ」。
だから「消す」のが「彼女」の役目で、元の通りに消されてしまう。
此処へ連れて来られた時と同じに、機械が残した記憶しか無い「シロエ」にされて。
(…そんなの、ぼくは御免だから…!)
機械にバレたら終わりだなんて、と肩をブルッと震わせた。
せっかく記憶が戻って来たのに、再び消されてしまうなんて、と。
(ぼくは、絶対に消させない…!)
バレないように、上手くやってみせる、と自信なら、ある。
意識を取り戻した直後だったら、「パパとママは?」と、キョロキョロしたって…。
(…しっかりと目が覚めたなら…)
自分が置かれた「今の状況」を、冷静に把握出来るだろう。
エリート候補生としての訓練、その数々は伊達ではない。
精神的にも鍛えられるから、意識が明瞭になるまでの時間も短い筈。
(そうしたら、直ぐに…)
朦朧としていた時の「自分の言動」、それらを「無かったことにする」。
医師や看護師が訝しんでいたら、「大丈夫、何でもありません」と。
「おかしなことでも言いましたか?」と、「少し、混乱していたようです」と。
(…今だって、夢を見ている時は…)
ちゃんと両親が出て来るのだから、意識を失くした間に「見ても」おかしくはない。
医師も看護師も、それで納得するだろう。
「両親の夢を見ていたんだな」と、「それで、探してしまったわけか」と。
まさか「記憶を取り戻した」なんて、彼らも、思いはしないだろう。
そんなケースは、きっと多くはないだろうから。
あったとしたって、その後の言動、それでアッサリ、バレるのが普通。
エリート候補生とは違う一般人なら、その場で咄嗟に「取り繕う」ことは出来ないから。
自分なら、上手くやれると思う。
運良く、記憶が戻った時は。
事故のショックで、過去の全てを思い出せたら。
(記憶が戻るくらいの事故なら、ぼくの身体も…)
酷いダメージを受けてしまって、もう「エリート候補生」は務まらないかもしれない。
足が片方、動かないとか、腕が一本、無かったりとか。
(それくらいで済めばいいけれど…)
重度の麻痺が残ってしまって、一生、車椅子かもしれない。
そういう身体になってしまったら、一般市民の道に行っても、制約を受けることだろう。
子供を育てる養父にはなれず、教師くらいしか出来ないだとか。
(でも、そうなっても…)
車椅子でしか動けなくても、腕が一本無くなっていても、きっと自分は後悔はしない。
「事故に遭う前に戻りたいよ」と、嘆く日々など、絶対に来ない。
車椅子の身になってしまっては、会いに行くことさえ叶わなくても…。
(…パパもママも、ちゃんと覚えているから…)
機械に知られてしまわないよう、隠し続けて生きるしかなくても、持っている記憶。
両親の顔も、故郷の家も、朧ではなくて、しっかりと。
子供時代の記憶さえあれば、息を引き取る時が来るまで、心は幸せに羽ばたいてゆける。
「シロエ」は「シロエ」に戻れたから。
二度と会うことは叶わなくても、懐かしい両親を鮮やかに思い出せるから。
(…もしも、そういう事故に遭ったら…)
幸せだよね、と思うけれども、こればかりは運。
けれど、記憶が戻ったならば…。
(ぼくは必ず、上手くやるよ)
また消すなんて、させやしない、と夢に見る未来。
身体の自由を奪われようとも、心が自由な方がいいから。
メンバーズになることは出来なくなっても、記憶が戻ってくれるのならば、と…。
思い出せたら・了
※SD体制の時代でも、サムを治すことは不可能。だったら、記憶喪失も、と思ったわけで…。
シロエの記憶が、勝手に戻ってしまう可能性もあるよね、という所から生まれたお話。
(……キース・アニアン……)
この名、とキースが心で呟いた名前。
国家騎士団総司令の部屋で、夜が更けた後に。
マツカが淹れて行ったコーヒー、それがまだ湯気を立てている。
コーヒーのカップを机に置いてから、マツカは控えめな声で尋ねた。
「他に用事はありませんか?」と。
ごくごく自然に、いつも通りに「キース」と呼んで。
(…確かに私は、キースなのだが…)
部下のセルジュたちも「アニアン閣下」と呼ぶのだけれども、その名前。
「キース・アニアン」と呼ばれる自分。
間違いなく自分の名前とはいえ、そう言ってもいいものかどうか、と時々、思う。
この名は、皆とは「違う」ものだから。
普通の人間が持っている名前、それとは全く違うのだから。
(…今の時代に、実子は存在しないのだがな…)
ミュウどもの世界は別として、とモビー・ディックで出会ったオレンジ色の瞳の子供を挙げた。
トォニィという名を持つ子供は、自然出産で生まれたと聞く。
(他にも複数、ああいうタイプ・ブルーの子供が…)
存在するから、彼らも自然出産児だろう。
その子供たちを別にしたなら、今の世界には「実子」はいない。
子供は全て、人工子宮から生まれて来るもの。
けれど、彼らが「名前」を持つのは…。
(養父母に引き渡された後…)
育ての親が、赤ん坊を見て「名前」をつける。
実子ではない子供であっても、其処に何らかの「思い」をこめて。
(こういう人間になって欲しい、と…)
祈りをこめてつける名もあれば、親の好みを反映したものもあるだろう。
その時々の流行りや、有名人の名前を映した名前。
(…しかし、どういう名付け方でも…)
必ず、ヒトの思いが働く。
どういう子供になって欲しいか、どんな子供を望んでいるか、と。
けれども、「キース」の名には無い「それ」。
周りの者たちは疑いもせずに、「キース・アニアン」と呼んでいるけれど…。
(そもそも、いつから、この名前なのか…)
それさえ分からないのだからな、と唇を歪める。
「人間」だったら、親が名前をつけた時点で、そういう名前の者になるのに。
モビー・ディックで目にした子供も、そうなのだろう。
もっとも、ミュウの世界の事情は、知りようもないことだから…。
(…今では歴史の中にしか無い、名付け親というのが…)
あるいは存在するかもしれない。
彼らが「ソルジャー」と崇める人物、ソルジャー・ブルーやソルジャー・シンなら…。
(名付け親としては、充分だからな)
そのどちらかが名付けただろうか、あの「トォニィ」という名前は。
それとも実の親がつけたか、謎だけれども…。
(…どちらにしても、生まれて間もなく…)
名前を貰って、その瞬間から「トォニィ」になったのが、あの子供。
親も周りの人間たちも、揃って彼を「トォニィ」と呼んで、その中で育って…。
(あの子供自身も、トォニィになってゆくわけだ)
それが自分の名前だからな、とコーヒーのカップに視線を落とす。
「人類の場合も、それは同じだ」と。
養父母が名付けて、周りの者たちが、そう呼び始める。
乳児の間は、ごく限られた狭い範囲の人間だけが「呼ぶ」名前。
引き渡されて名前を貰った直後は、多分、養父母だけだろう。
家の外に出られるようになったら、隣近所の人間たちが…。
(こういう名前の子だ、と養父母に聞いて、その名前で…)
同じように呼んで、次の段階では「友達」と「教師」。
幼い子供が通う学校、其処でも「名前」を使うから。
点呼もそうだし、子供同士で呼び合う時にも、「名前」だから。
そんな具合に、名前と一緒に育ってゆく子。
人間だったら誰でもそうだし、ミュウの世界でも同じこと。
(…サムが記憶を失っても…)
彼が今でも「サム」であることは変わらない。
成人検査を受ける前の世界に戻ってしまって、思い出の中で生きていようと、サムはサム。
彼が待ち続ける養父母たちは、サムのことを「サム」と呼んだから。
どうして「サム」と名付けたのかは、サム自身も知らないことであっても。
(…サムはサムとして育ったわけで…)
幼馴染のミュウの長の名も、彼は未だに忘れていない。
「ジョミー」と懐かしそうに呼ぶ名は、「ジョミー」が持っている名前。
人類の世界から外れてミュウの長になっても、「ジョミー」は「ジョミー」。
(…ジョミー・マーキス・シン…)
彼は最初から「ジョミー」だったし、ミュウになっても、名まで変わりはしない。
彼が命を失う時まで、彼は「ジョミー」と呼ばれるだろうし、彼自身も、そう自覚している。
自分の名前は「ジョミー」なのだ、と。
人類だろうが、ミュウの長だろうが、「ぼくは、ジョミーだ」と。
(…だが、私には…)
それが無いのだ、と忌まわしい記憶が蘇って来る。
廃校となったEー1077で、初めて目にした自分の過去。
遥か昔にシロエが見付けて、言い残した場所で。
(フロア001…)
其処にズラリと並んでいたのは、大勢の「キース」たちだった。
それと、モビー・ディックで出会った「ミュウの女」と。
彼らはガラスのケースに入って、既に命を失っていた。
ただのサンプル、人間の形をした「標本」。
マザー・イライザが、事も無げに言い放った言葉は、「サンプル以外は、処分しました」。
つまり「他にもいた」ということ。
どの段階まで育ったのかは知らないけれども、「キース」たちが。
フロア001で生まれて、水槽の中で育った者が。
グランド・マザーの命令通りに破壊して来た、過去が眠る墓場。
もうサンプルは存在しなくて、「キース」は一人になったけれども…。
(…私は、いつからキースなのだ?)
誰が「キース」と名付けたのだ、と問い掛けてみても、答えが返るわけもない。
マザー・イライザは、Eー1077ごと、惑星の大気圏に落とされ、燃え尽きて消えた。
イライザに「キース」と「ミュウの女」を造らせた者は、沈黙を守ることだろう。
「どうして私は、キース・アニアンなのですか?」と尋ねてみても。
グランド・マザーが返す答えは、「そんなことなど、どうでもよろしい」。
(……尋ねたことは無いのだが……)
そうしなくても想像はつく、と零れる溜息。
機械が「キース」と名付けたのなら、其処に「思い」は何も無いから。
人間の養父母たちと違って、こめたい思いなどは無いから。
(…恐らく、記憶バンクの中から、適当に…)
選び出された名前が「キース」で、「アニアン」の姓も似たようなもの。
「キース」の生まれを捏造するにあたって、機械が「良し」と判断した姓。
何処の生まれか、何処から来たのか、誰も疑問を持たないように。
「キース」と同じ姓を持つ者、それを探りはしないように。
(どちらも、SD体制が始まるよりも、遥か昔から…)
人間が地球しか知らなかった頃から、存在していた平凡な名前。
(地域や人種で、つける名前は違ったようだが…)
そういう垣根もいつしか崩れて、「つけたい名前」を名付ける時代が来たという。
以前だったら、その子とは違う人種や国籍、それを持つ者しか使わなかった名前でも…。
(自分の子供に名付けることが、ごくごく普通になっていって…)
名前だけでは、生まれも育ちも区別がつかない世界になった。
それでも、姓を耳にしたなら、ある程度のことは分かったらしい。
先祖が何処の人間だったか、何を職業としていたのか、など。
(…名前というのは、本来、そういったもので…)
一人ずつ違った個性を持つこと、それを端的に表すもの。
記号や数字には置き換えられない、とても大切な「ヒト」である証。
なのに「キース」は、それを持たない。
名前を持ってはいるのだけれども、数字や記号と変わらないから。
自分は、いつから「キース」なのか。
フロア001にあった水槽、其処から出された時だと言うなら…。
(…まだしも、救いがあるのだがな…)
生きて出て来たのは「私」だけだ、と、冷めてしまったコーヒーを眺める。
自分以外の「サンプル」や処分された者たち、彼らは「外の世界」を知らない。
だから「水槽の外へ出て来てから」、この名を与えられたのだったら、「キース」は一人。
他に何人の「キース」がいようが、彼らは名前を持たないから。
(…だが、水槽から出されて、直ぐに…)
「お前の名前は、キース・アニアン」と言われて、理解出来るだろうか。
名前の概念は知っていたって、しっくり馴染むものなのかどうか。
(水槽の中で、知識を与え続けていたのなら…)
それも成人検査の年に至るまで、充分な量の、いや、膨大な知識を与えるならば…。
(…私という存在に、全く呼び掛けないままで…)
教育することは可能なのか、と考えるほどに「分からない」。
「ヒト」の頭脳で考える限り、「ただの一度も呼び掛けないまま」での教育は不可能。
教官をやっていた経験からしても、無理なことだと思うけれども、機械だったら出来るのか。
(可能だとしたら、水槽の中では、私も他のサンプルたちと同じで…)
名前は持たずに育ち続けて、世話をしていた研究者たちは、番号で呼んでいたのだろう。
「キース」に直接、呼び掛けはせずに、研究者同士で使った、便宜上の「名前」。
それまでに育てた大勢の「キース」、彼らと区別するために。
(…そうだとしたなら、実は、それこそが…)
私の本当の名ではないのか、と考えて背中がゾクリと冷えた。
「やはり私には、本当の名前などは無いのだ」と。
研究者たちが使った番号、数字と記号を組み合わせたろう、「キース」を指すモノ。
そういう名前で育て上げられて、後に「キース・アニアン」の名を与えられた。
「キース・アニアン」は一人だとしても、名前を持たずに十四年間も育ったならば…。
(……人間ではない、ということか……)
人間なら「名前」を持つのだからな、と虚しくなる。
「私の場合は、番号なのだ」と。
「キース・アニアンという名前の方にも、ヒトの思いは無いのだからな」と…。
持っていない名前・了
※「キース・アニアン」の名は、誰がつけたんだろう、と考えた所から生まれたお話。
いつから「キース」と呼んでいたのか、それさえも謎。キース本人だって怖いだろうな、と。
この名、とキースが心で呟いた名前。
国家騎士団総司令の部屋で、夜が更けた後に。
マツカが淹れて行ったコーヒー、それがまだ湯気を立てている。
コーヒーのカップを机に置いてから、マツカは控えめな声で尋ねた。
「他に用事はありませんか?」と。
ごくごく自然に、いつも通りに「キース」と呼んで。
(…確かに私は、キースなのだが…)
部下のセルジュたちも「アニアン閣下」と呼ぶのだけれども、その名前。
「キース・アニアン」と呼ばれる自分。
間違いなく自分の名前とはいえ、そう言ってもいいものかどうか、と時々、思う。
この名は、皆とは「違う」ものだから。
普通の人間が持っている名前、それとは全く違うのだから。
(…今の時代に、実子は存在しないのだがな…)
ミュウどもの世界は別として、とモビー・ディックで出会ったオレンジ色の瞳の子供を挙げた。
トォニィという名を持つ子供は、自然出産で生まれたと聞く。
(他にも複数、ああいうタイプ・ブルーの子供が…)
存在するから、彼らも自然出産児だろう。
その子供たちを別にしたなら、今の世界には「実子」はいない。
子供は全て、人工子宮から生まれて来るもの。
けれど、彼らが「名前」を持つのは…。
(養父母に引き渡された後…)
育ての親が、赤ん坊を見て「名前」をつける。
実子ではない子供であっても、其処に何らかの「思い」をこめて。
(こういう人間になって欲しい、と…)
祈りをこめてつける名もあれば、親の好みを反映したものもあるだろう。
その時々の流行りや、有名人の名前を映した名前。
(…しかし、どういう名付け方でも…)
必ず、ヒトの思いが働く。
どういう子供になって欲しいか、どんな子供を望んでいるか、と。
けれども、「キース」の名には無い「それ」。
周りの者たちは疑いもせずに、「キース・アニアン」と呼んでいるけれど…。
(そもそも、いつから、この名前なのか…)
それさえ分からないのだからな、と唇を歪める。
「人間」だったら、親が名前をつけた時点で、そういう名前の者になるのに。
モビー・ディックで目にした子供も、そうなのだろう。
もっとも、ミュウの世界の事情は、知りようもないことだから…。
(…今では歴史の中にしか無い、名付け親というのが…)
あるいは存在するかもしれない。
彼らが「ソルジャー」と崇める人物、ソルジャー・ブルーやソルジャー・シンなら…。
(名付け親としては、充分だからな)
そのどちらかが名付けただろうか、あの「トォニィ」という名前は。
それとも実の親がつけたか、謎だけれども…。
(…どちらにしても、生まれて間もなく…)
名前を貰って、その瞬間から「トォニィ」になったのが、あの子供。
親も周りの人間たちも、揃って彼を「トォニィ」と呼んで、その中で育って…。
(あの子供自身も、トォニィになってゆくわけだ)
それが自分の名前だからな、とコーヒーのカップに視線を落とす。
「人類の場合も、それは同じだ」と。
養父母が名付けて、周りの者たちが、そう呼び始める。
乳児の間は、ごく限られた狭い範囲の人間だけが「呼ぶ」名前。
引き渡されて名前を貰った直後は、多分、養父母だけだろう。
家の外に出られるようになったら、隣近所の人間たちが…。
(こういう名前の子だ、と養父母に聞いて、その名前で…)
同じように呼んで、次の段階では「友達」と「教師」。
幼い子供が通う学校、其処でも「名前」を使うから。
点呼もそうだし、子供同士で呼び合う時にも、「名前」だから。
そんな具合に、名前と一緒に育ってゆく子。
人間だったら誰でもそうだし、ミュウの世界でも同じこと。
(…サムが記憶を失っても…)
彼が今でも「サム」であることは変わらない。
成人検査を受ける前の世界に戻ってしまって、思い出の中で生きていようと、サムはサム。
彼が待ち続ける養父母たちは、サムのことを「サム」と呼んだから。
どうして「サム」と名付けたのかは、サム自身も知らないことであっても。
(…サムはサムとして育ったわけで…)
幼馴染のミュウの長の名も、彼は未だに忘れていない。
「ジョミー」と懐かしそうに呼ぶ名は、「ジョミー」が持っている名前。
人類の世界から外れてミュウの長になっても、「ジョミー」は「ジョミー」。
(…ジョミー・マーキス・シン…)
彼は最初から「ジョミー」だったし、ミュウになっても、名まで変わりはしない。
彼が命を失う時まで、彼は「ジョミー」と呼ばれるだろうし、彼自身も、そう自覚している。
自分の名前は「ジョミー」なのだ、と。
人類だろうが、ミュウの長だろうが、「ぼくは、ジョミーだ」と。
(…だが、私には…)
それが無いのだ、と忌まわしい記憶が蘇って来る。
廃校となったEー1077で、初めて目にした自分の過去。
遥か昔にシロエが見付けて、言い残した場所で。
(フロア001…)
其処にズラリと並んでいたのは、大勢の「キース」たちだった。
それと、モビー・ディックで出会った「ミュウの女」と。
彼らはガラスのケースに入って、既に命を失っていた。
ただのサンプル、人間の形をした「標本」。
マザー・イライザが、事も無げに言い放った言葉は、「サンプル以外は、処分しました」。
つまり「他にもいた」ということ。
どの段階まで育ったのかは知らないけれども、「キース」たちが。
フロア001で生まれて、水槽の中で育った者が。
グランド・マザーの命令通りに破壊して来た、過去が眠る墓場。
もうサンプルは存在しなくて、「キース」は一人になったけれども…。
(…私は、いつからキースなのだ?)
誰が「キース」と名付けたのだ、と問い掛けてみても、答えが返るわけもない。
マザー・イライザは、Eー1077ごと、惑星の大気圏に落とされ、燃え尽きて消えた。
イライザに「キース」と「ミュウの女」を造らせた者は、沈黙を守ることだろう。
「どうして私は、キース・アニアンなのですか?」と尋ねてみても。
グランド・マザーが返す答えは、「そんなことなど、どうでもよろしい」。
(……尋ねたことは無いのだが……)
そうしなくても想像はつく、と零れる溜息。
機械が「キース」と名付けたのなら、其処に「思い」は何も無いから。
人間の養父母たちと違って、こめたい思いなどは無いから。
(…恐らく、記憶バンクの中から、適当に…)
選び出された名前が「キース」で、「アニアン」の姓も似たようなもの。
「キース」の生まれを捏造するにあたって、機械が「良し」と判断した姓。
何処の生まれか、何処から来たのか、誰も疑問を持たないように。
「キース」と同じ姓を持つ者、それを探りはしないように。
(どちらも、SD体制が始まるよりも、遥か昔から…)
人間が地球しか知らなかった頃から、存在していた平凡な名前。
(地域や人種で、つける名前は違ったようだが…)
そういう垣根もいつしか崩れて、「つけたい名前」を名付ける時代が来たという。
以前だったら、その子とは違う人種や国籍、それを持つ者しか使わなかった名前でも…。
(自分の子供に名付けることが、ごくごく普通になっていって…)
名前だけでは、生まれも育ちも区別がつかない世界になった。
それでも、姓を耳にしたなら、ある程度のことは分かったらしい。
先祖が何処の人間だったか、何を職業としていたのか、など。
(…名前というのは、本来、そういったもので…)
一人ずつ違った個性を持つこと、それを端的に表すもの。
記号や数字には置き換えられない、とても大切な「ヒト」である証。
なのに「キース」は、それを持たない。
名前を持ってはいるのだけれども、数字や記号と変わらないから。
自分は、いつから「キース」なのか。
フロア001にあった水槽、其処から出された時だと言うなら…。
(…まだしも、救いがあるのだがな…)
生きて出て来たのは「私」だけだ、と、冷めてしまったコーヒーを眺める。
自分以外の「サンプル」や処分された者たち、彼らは「外の世界」を知らない。
だから「水槽の外へ出て来てから」、この名を与えられたのだったら、「キース」は一人。
他に何人の「キース」がいようが、彼らは名前を持たないから。
(…だが、水槽から出されて、直ぐに…)
「お前の名前は、キース・アニアン」と言われて、理解出来るだろうか。
名前の概念は知っていたって、しっくり馴染むものなのかどうか。
(水槽の中で、知識を与え続けていたのなら…)
それも成人検査の年に至るまで、充分な量の、いや、膨大な知識を与えるならば…。
(…私という存在に、全く呼び掛けないままで…)
教育することは可能なのか、と考えるほどに「分からない」。
「ヒト」の頭脳で考える限り、「ただの一度も呼び掛けないまま」での教育は不可能。
教官をやっていた経験からしても、無理なことだと思うけれども、機械だったら出来るのか。
(可能だとしたら、水槽の中では、私も他のサンプルたちと同じで…)
名前は持たずに育ち続けて、世話をしていた研究者たちは、番号で呼んでいたのだろう。
「キース」に直接、呼び掛けはせずに、研究者同士で使った、便宜上の「名前」。
それまでに育てた大勢の「キース」、彼らと区別するために。
(…そうだとしたなら、実は、それこそが…)
私の本当の名ではないのか、と考えて背中がゾクリと冷えた。
「やはり私には、本当の名前などは無いのだ」と。
研究者たちが使った番号、数字と記号を組み合わせたろう、「キース」を指すモノ。
そういう名前で育て上げられて、後に「キース・アニアン」の名を与えられた。
「キース・アニアン」は一人だとしても、名前を持たずに十四年間も育ったならば…。
(……人間ではない、ということか……)
人間なら「名前」を持つのだからな、と虚しくなる。
「私の場合は、番号なのだ」と。
「キース・アニアンという名前の方にも、ヒトの思いは無いのだからな」と…。
持っていない名前・了
※「キース・アニアン」の名は、誰がつけたんだろう、と考えた所から生まれたお話。
いつから「キース」と呼んでいたのか、それさえも謎。キース本人だって怖いだろうな、と。
