(嫌…。嫌だ…!)
来るな、と叫んでも消えてくれない忌まわしい機械。
子供時代の記憶を消してしまった、テラズ・ナンバー・ファイブの姿。
苦しみ続けるシロエは知らない、自分が何処にいるのかを。
これは夢ではないことを。
フロア001、進入禁止セクションに足を踏み入れた報い。
囚われた末にサイオン・チェックの最中だとは。
本当に記憶の中を探られ、掻き回されているのだとは。
(…助けて!)
何度目に叫んだ時だったろうか、不意に姿を見せた少年。
金色の髪に赤いマントの、幼かった頃に出会った少年。
(ピーターパン!!)
きっと彼なら助けてくれる、と思った途端に軽くなった身体。
まるで翼が生えたかのように。
ピーターパンと一緒に空へ舞い上がって、何処までも飛んでゆけるかのように。
(…今の…)
飛べた、と見回した瞳に映った、自分のカメラ。
それを手にして何処へ行ったのか、少しも思い出せないけれど。
(ぼくのカメラ…!)
取り戻さなきゃ、と思ったら宙を飛んで来たカメラ。
腕の中にストンと収まるように。
それを抱き締め、ホッとついた息。
(良かった…)
カメラにはケーブルが繋がれたままで、誰かが見ようとしている中身。
大切なものが入っているのに。
けして中身を見せるわけにはいかないのに。
(このケーブル…)
ケーブルを抜いて捨てるのがいいか、中身を抜いてカメラを捨てるか。
一瞬迷って、選んだ中身。
それさえあったら、もうカメラには用は無いから。
中のチップが大切だから。
そして抜き出したカメラのチップ。
もう要らない、と放り出したカメラ、それは床へと落ちたから。
(落ちちゃ駄目だ…!)
せっかく空を飛べたのに、とトンと蹴った宙。
飛ぼうと、ぼくの部屋まで、と。
此処にいたなら、また捕まってしまうから。
ピーターパンが飛ばせてくれた空から、床に引き戻されるから。
引き戻されたら、待っているのは恐ろしい機械。
テラズ・ナンバー・ファイブの手先で、頭を、記憶を掻き回す悪魔。
だから逃れた、空へ、部屋へと。
きっと飛べると、ピーターパンが来てくれたから、と。
(ぼくの部屋まで…!)
飛べる筈だよ、と宙を蹴って飛んで、ストンと床に着いた足。
其処は自分の部屋だった。
明かりは灯っていなかったけれど。
薄暗い闇に覆われたままで、空気も冷えていたけれど。
(…ピーターパン…?)
来てくれたよね、と思うのに、誰もいない部屋。
自分一人が立っているだけ、制服さえも失くしてしまって。
手の中にはチップ、カメラに仕込んでいた筈のもの。
(…どうして此処に?)
それにカメラは、と俄かに覚えた激しい恐怖。
自分の身に何が起こっていたかを、思い出したから。
捕まったのだと、フロア001で、と。
(それじゃ、どうして…?)
自分は此処にいるのだろう?
どうやって逃れて来られたのだろう、あの悪魔たちが潜む部屋から。
頭を、記憶を掻き回す機械、其処に囚われていた筈なのに。
自分の力で出られるわけなど、無い筈なのに。
カメラのチップにしても、そう。
どうやってそれを取り戻せたのか、何故、手の中に持っているのか。
(…覚えていない…?)
何も。
(…誰がぼくを…?)
分かるわけがない。
けれど、確かに逃げ出した自分。此処は自分の部屋なのだから。
考えても思い出せないこと。
何処だったのかも謎の監獄から、気付けば此処に戻っていた。
奪われた筈の、カメラのチップを取り戻して。
悪魔のような機械の牢獄、其処から自由の身になって。
(……ぼくは、どうして……)
何も覚えていないけれども、一つだけ、今も確かなこと。
きっと悪魔は諦めていない、自分を捕えて苦しめることを。
カメラのチップを取り上げることも。
(…隠さなきゃ…)
自分が見付けた、キースの秘密。
それを収めた大切なチップ、これを誰にも捜せない場所へ。
何処へ、と考えなくても分かる。
いつも自分と一緒だった本、ピーターパンの本がいい。
あの本はいつも一緒だから。
どんな時でも、きっとこれからも、けして自分は離さないから。
(ピーターパン…)
もう顔さえも思い出せない、両親がくれた大切な本。
この本を失くす時があるなら、離れる時が来るのなら…。
それは自分が死んだ時だけ、そうだと心に決めている本。
此処に隠せば、離れない。
きっと誰にも見付からないから、この中に隠しておくのがいい。
(…ごめんなさい…)
ぼくを許して、と剥がしたピーターパンの本の見返し。
「セキ・レイ・シロエ」と、自分の名前が書いてある箇所。
其処を剥がして、隠したチップ。
元通りにそっと貼って戻して、見返しの下に。
(これで大丈夫…)
もう見付からない、と安堵したけれど。
チップは本に隠せたけれども、此処にいたなら、来るだろう悪魔。
(隠れなきゃ…)
逃げ切らなくちゃ、と潜り込んだ床下。
前に其処から下へと潜って、ステーションの奥まで入ったから。
通風孔を伝って行ったら、きっと何処かへ出る筈だから。
逃げてみせる、と入って隠れて、やり過ごした保安部隊の捜索。
けれど分からない、自分が此処まで逃げられた理由。
あの悪魔から。
地獄のような牢獄から。
カメラのチップも無事に取り戻して、部屋まで戻って来られた理由。
(…ぼくは、どうやって…?)
分からないけれど、まるで見当もつかないけれど。
きっとこうだ、と立てた推論。
あの部屋で何か騒ぎが起こって、それに乗じて逃げ出せた。
けれども熱にうかされていたか、でなければ混乱していたか。
この部屋に戻るまでの記憶を失くして、今、此処にいるに違いない。
だから追われているのだと。
保安部隊が捜していると、姿を隠した逃亡犯の自分を、と。
(逃げなくちゃ…)
そしてキースにこのチップを、と抱えた本。
大切なピーターパンの本。
あいつにチップを突き付けてやると、これを見ればキースも終わりだと。
澄ましたエリートの顔は崩れて、きっとパニックになるだろうと。
そうするまでは捕まらない、と上げた通風孔の蓋。
此処を抜けてと、なんとしてでもキースに会ってこれを見せねばと。
そのために自分はこんな目に遭って、今も追われているのだから。
地獄の責め苦を受けたのだから。
(キース・アニアン…)
見付けてやる、と進むシロエは、まるで知らない。
自分が何をしたのかを。
どうやって悪魔の手から逃れて、自分の部屋まで飛んだのかを。
カメラのチップを取り戻せたのも、空を飛べたのも、全部自分のサイオンなのに。
夢で出会ったピーターパンから、その切っ掛けを貰ったのに。
ピーターパンはミュウの長だから。
サイオンを使った思念波通信、シロエはそれに晒されたから。
呼応するように目覚めたサイオン、その力で空へ飛び立った。
瞬間移動で機械の壁をすり抜け、カメラからチップを抜き取って。
宙を蹴って飛んで、自分の部屋へ。
そうして移動したというのに、自分では覚えていなかった力。
覚えていたなら、変わったろうに。
サイオンを自由に扱えたのなら、その後の運命も変わったろうに。
けれど、シロエは気付かないまま。
目覚めた力を使いこなせたら、呼べていただろうピーターパン。
直ぐ其処に来ていた白い鯨を、シャングリラという名のミュウの箱舟を。
かつて自分が乗り損ねた船、それに乗ることも出来ただろうに。
(…キース・アニアン…)
あいつ、とシロエは追い続ける。
通風孔の中を這って進んで、キースが来そうな場所へ出ようと。
ピーターパンの本を抱えて、チップを仕込んだ本を手にして。
もしもキースを忘れたならば、彼の代わりに、ピーターパンを思い出したなら…。
(…ぼくは必ず…)
キースの奴を、と憎む代わりに、子供の心を捕まえたなら。
ネバーランドに行きたかった夢を、ピーターパンを追っていたならば。
きっと全ては変わるのに。
ピーターパンは、白い鯨は、直ぐ近くまで来て飛んでいるのに。
今、呼んだならば、それは必ず、シロエを救いに来てくれるのに。
気付かないから、ただひたすらに進んでゆく。
ピーターパンの本と一緒に、破滅へと。
もう一度空へ飛び立つ代わりに、二度と戻れない道へ向かって…。
目覚めたサイオン・了
※シロエがサイオン・チェックから逃げたルートは謎だよな、と前から思っていたわけで。
どう考えてもサイオンを使った脱出マジック、けれど本人には自覚ゼロ。自覚してればね…。