チョダブラムとはシェルパ語で『女神の首飾り』という意味である。
神々が住むと伝わるヒマラヤの高峰の多くは今もシェルパ語の名で呼ばれている。
夏でも消えぬ雪を頂き、蒼天に聳える白き神の座。
これは神たちの物語………。
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「行ってらっしゃい」
それが別れの言葉だった。
「帰って来たら、また君の抱く地球を見せてくれ」
すぐに戻るよ、とあの人は言った。微笑んで私を抱き締めてくれた。頷き返して、シャトルに乗り込んでゆく背を、紫のマントを見送った。
盲いたこの目は開かないけれど、心の瞳で見る事は出来る。だから信じて送り出せた。
あの人は約束を違えない。
すぐに、ナスカに残っている仲間たちを説得したら必ずすぐに戻って来る。
そうしたら二人で地球を見ましょう。
今や忌まわしい星となってしまった私が名付けた赤い星……ナスカの代わりに、私の地球を。
托された補聴器が不安を掻き立てたけれど、フィシスはブルーを信じていられた。
遠い昔にユニバーサルから自分を救い出してくれたミュウの長。
あの日から「ぼくの女神」と優しく暖かい声音で呼ばれ、ただ大切に愛しまれてきた。
シャングリラに住むミュウたちは皆、揃いの制服を身に着けるのに、自分だけは柔らかく上質な布で仕立てた優美な衣装を与えられた。
ブルーのマントの色にほんの少し赤味を加えたような、桃色とも藤色ともつかぬ色合い。
仲間たちのために立ち働くにはおよそ不向きな長い引き裾と袖を持ったそれに、フィシスは戸惑ったものだけれども。
「君は女神だ。ぼくの、ミュウたちの大切な女神。それだけが君の役目なんだよ。それに…」
その服は君にとても似合う、と柔らかな笑みを浮かべたブルーに逆らう気持ちは起こらなかった。ブルーがそれを望むのならば、そのように。
他のミュウたちのように何らかの役割を担うでもなく、日々、テーブルの上のカードをめくって時を費やし、カードが指し示すさして変わり映えのしない未来に溜息をつくだけの生であっても…。
ブルーはフィシスが持って生まれた地球の映像をこよなく愛した。
それがゆえに自分を救ったのかと時折錯覚を覚えるほどに、ブルーは青い地球を求めた。
「地球を抱く女神」、「ぼくの女神」と。
タロットカードを繰り、ブルーが望む時に手と手を絡めて青い地球を見せる。それがフィシスの唯一の役目。
いつしか占いは神格化され、託宣と呼ばれて誰もが伺いを立てるようになっていった。
そして、ブルーと釣り合いの取れる外見で止めてしまった自分の時がどれほど長いかを物語る背丈よりも長く伸びた髪。床に届いてなお余りある金色の髪もまた、特別である証であった。
こんな髪ではいざという時に役に立てない、と訴えた時は踝まで届きそうであったのだけれど、ブルーは首をゆっくりと左右に振った。
「いけないよ、フィシス。…髪には力が宿ると言うから」
どうかそのままに、と穏やかに諭され、結い上げることすら叶わないまま金色の糸は伸びてゆく。前髪だけは切る事を許されていたが、それはブルーに出会った時から切り揃えられていたからだろう。
何もかもが「特別」なミュウたちの女神。
しかし、その前にフィシスはブルーだけの……ブルーだけが親しく触れる事が出来る、ブルーのための女神だったのだ。
ソルジャーと呼ばれ、仲間たちを救い導くミュウの長、ブルー。
皆に慕われ、シャングリラをその手で守り続ける、生ける神にも等しい存在。
攻撃的なサイオンを持つタイプ・ブルーはブルーしかおらず、戦える者もまた彼一人のみ。
それがどれほどの孤独を彼に齎すか、思い至る者は誰もいなかった。
ブルーはミュウたちを導き護るけれども、ブルーを導く手はこの世には無い。
孤高の戦士が自らの標に、心の支えにと焦がれた星が母なる地球。
その地球の鮮やかな映像を身の内に抱くフィシスに惹かれ、女神と呼んで慈しんだのは自然な流れであると同時に必然だった。
ブルーが神ならば、彼が敬い慈しむ者も、また神となる。
そうしてフィシスは女神になった。
シャングリラを守る銀の男神と、金の髪を持つ神秘の占い師、麗しき女神。
二人は生まれ落ちた時からの対であったかのように、互いに互いを求め続けた。
男女の仲などというものではない。
結ばれているものは互いの心で、その肉体はただの器にすぎない。
手を絡め、抱き合うことはあっても、それよりも先には進まなかった。
恋人でもなく、伴侶でもなく、文字や言葉ではとても表せない絆。
それが在ったから、フィシスは信じた。
ブルーは必ず戻って来ると。
「ブルー…。生きて戻って…。信じています」
ナスカに向かった筈のブルーが戦いの場へと赴いたことに気付いたフィシスは祈り続けた。
ブルーに托された補聴器を握り、ただひたすらに自らの半身が無事に戻ることを。
……それなのにブルーは戻らなかった。
フィシスを残して、ミュウたちを残して逝ってしまった。
一人でも多くのミュウを救うために、ミュウの未来を切り拓くためにその身を贄としてしまった。
二度と還らぬ人の形見がフィシスの手の中に残されたけれど。
愛した人の思い出として、秘めてしまっても良かったのだけれど。
「…ソルジャー・シン。これはきっと……ブルーがあなたに遺したものです」
ブルーがいなくなってしまった青の間にソルジャー・シンを呼び、フィシスはそれを手渡した。
いつもあの人と共に在った補聴器。
あの人が最後に渡してくれた大切な形見。
出来るならば持っていたかったけれど、ブルーはそれを望まない。
ミュウたちのために戦い、散ったブルーが見ていたものはミュウたちの未来。そこへと皆を導くためにはソルジャー・シンが、彼を導くにはブルーの三世紀に渡る記憶が必要とされるであろうから。
……ブルー、あなたが望むのならば。
わたくしもそれに従いましょう。
あなたの記憶は欲しかったけれど、全てはあなたの心のままに……。
ブルーの補聴器を引き継いだソルジャー・シンは人類との戦いを決意する。地球のシステムを末端から一つずつ破壊するべくアルテメシアへと進路を定めたシャングリラ。
フィシスの占いに頼ることなく、ソルジャー・シンがそう決めた。
これから先のミュウの未来に自分は必要ではないかもしれない。
占いしか出来ず、幻に過ぎない地球を抱くだけの女神など誰も顧みなくなる日が来るかもしれない。
それも仕方のないことなのだ、とフィシスは思う。
誰よりも自分を求めてくれた銀色の神は、翼を広げて永遠の彼方へと飛び去って行った。
いつか彼を追ってこの世から旅立つ時が来るまで、対となる者は居はしない。
二人で一人とまで想い慕った神が居ないなら、女神も要らない。
そう、いつの日にかブルーの許へと……その傍らに逝く日だけを思い、生きてゆくしかないのだろう。
この胸が鼓動を止めてはくれず、この息が絶えてくれぬのならば…。
残されたフィシスを慰めてくれるブルーの記憶はソルジャー・シンに渡してしまった。
最後に抱き締められた温もりと、耳に残る声だけを頼りに長い時を一人、生きられはしない。
けれど……。
私にはまだ望みがあるから、とフィシスは自分の部屋へ向かった。
天体の間の奥深く設えられた、他のミュウたちとは比べ物にならぬ広すぎる居室。
この部屋を与えられた時もまた、フィシスは「私にはあまりにも過ぎたものです」と言ったのだけれど。ブルーは否を言わせなかった。
「この部屋はぼくも使うから。…二人なら広すぎはしないだろう?」と。
その言葉どおり、ブルーは幾度も訪ねて来たし、時にはフィシスの膝を枕にうたた寝することもあったほど。
青の間はブルーの私室とはいえ、シャングリラの守りの要でもあった。戦士が、ソルジャーが死守する最後の砦。寝台に横たわって休む時でさえ、ブルーはそれを意識せずにはいられない。
そんなブルーが心から安らげる場所としてフィシスが暮らす部屋を選んだ。
フィシスの部屋はフィシス一人のものではなくて、ブルーの居場所でもあったのだ。
「……ブルー……」
喪ってしまった人の名を呼び、フィシスは二人で長い時間を過ごした部屋の奥へと向かう。
そこには見事な彫刻を施した化粧台が据えられ、鏡に自分の姿が映った。
ブルーのマントと見紛う色の衣装が今は限りなく悲しいけれども、それも慣れるしかないだろう。
そのためにも…、と伸ばした手が銀のブラシを掴んだ。
シャングリラに来てから朝晩、長い髪を毎日梳かし続けた、ブルーに貰ったヘアブラシ。繊細な銀細工のそれには希少な動物の毛が植え込まれている。
「君は大切な女神だから。…それに相応しいものをと思ったんだよ、ぼくのフィシス」
これは本物の猪の毛を使ったヘアブラシなのだ、とブルーは言った。
「髪を傷めない素材だそうだ。ずっと昔から高価なもので、今では殆ど手に入らない」
君のために手に入れてきたんだよ、と渡された時の手の温もりをフィシスは今でも覚えている。そんな高価なものを何処から、と訊いてもブルーは微笑んだだけで答えなかった。
「…ブルー……。あなたは此処にいますか…?」
フィシスは白い指先でヘアブラシを探り、盲いた瞳で覗き込んだ。
植えられた黒い毛に絡んだ金色の糸。いつもなら髪を梳かし終える度に捨てるのだけれど、この数日間、嫌な胸騒ぎに囚われていたために放ったままになっていた。
だから、もしかしたら、この中に……。
「………ブルー………」
フィシスの閉じた瞳から大粒の涙が零れ落ちた。金色に輝く長い糸に混じって、ひっそりと控えめな光を放つ銀色の糸が幾筋か。
それは逝ってしまったブルーが遺したフィシスへの形見。
「行ってくるよ」と抱き締めてくれた時、頬に触れたブルーの銀糸そのままの銀色の髪。
「……ブルー……。居てくれたのですね……」
あなたは此処に、と銀の髪を絡ませたヘアブラシを胸に抱いてフィシスは床にくずおれる。とめどなく頬を伝う涙を拭おうともせず、亡き人の形見をかき抱きながらその名をいつまでも呼び続ける。
ほんの数本の髪であっても、ブルーの形見があるならば。
ブルー、あなたが此処に居てくれるのならば、私は生きてゆけるでしょう……。
フィシスの部屋を訪れたブルーが眠ってしまうことは度々で。
そんな時、目覚めたブルーの癖のある銀糸が好き勝手な方へとはねていることもよくあった。
「…すまない、フィシス。ぼくはどのくらい眠っていた?」
「ほんの少しの間ですわ。それよりも、ブルー…」
髪が、と答えるフィシスの声で鏡を眺めたブルーは困ったように笑ったものだ。
「この姿は皆には見せられないな…」
「本当ですわね」
あなたとは誰も気付かないかもしれませんわ、と冗談めかした口調で応じて、フィシスはブルーの髪を直した。ブルーが自分にとくれたブラシで、丁寧に気を付けて梳りながら。
そう、ついこの間もそうだった。
十五年ぶりに目覚めたブルーと一緒に天体の間からこの部屋に戻り、避けようのない不幸が訪れる予感に怯える自分に向かってブルーが何度も「大丈夫だよ」と…。
「ぼくがみんなを守るから」と…。
心を覆い尽くしそうな不安を拭い去るように幾度も繰り返してくれたブルーは「少しだけ眠る」とフィシスに告げると、その膝に頭を預けて眠りに落ちた。
少しと言いつつ一時間は眠っていただろう。はねてしまった髪をフィシスが梳かし、ブラシをそのまま化粧台に置いた。
その時にブラシに絡まった銀糸の密やかな光に、今もブルーの面影が宿る。
ブルーは形見を遺してくれた。独り残された女神の手許に、自らが生きた命の証を……。
愚かだった自分の過ちのせいで喪ってしまった大切な人。
二度と還らぬ人を想って涙し、泣いて泣き崩れて暮らしていてもブルーは永遠に戻っては来ない。
形見になった銀色の髪も、箱に仕舞って眺めるだけではいつ失くすかも分からない。
フィシスは忠実な従者を呼んだ。
「アルフレート」、と。
この船に迎えられた時から彼女に仕え、側に控えて竪琴を奏で続けて来た無口な男。
彼ならば誰よりも信用出来る。
「…これはブルーが遺した髪です。これを……」
この石の裏側に入れたいのです、とフィシスはブルーに贈られた首飾りを細い頸から外した。
全てのミュウが身に付けている赤い宝石。
フィシスの首飾りは誰のものよりも華やかであり、彼女が特別な存在であると知らしめるためには充分なもの。その中央に据えられた石をフィシスはアルフレートに示した。
「この裏に入れて貰えませんか? 私がいつもブルーと一緒に居られるように」
盲いた瞳から涙が落ちる。
従者は預けられた箱と首飾りを捧げるように持ち、静かに退室していった。
アルフレートはフィシスのために懸命に奔走したのだろう。首飾りがフィシスの頸から消えていた時間はたった半日。その日の夜には望み通りの細工を施され、フィシスの許へと戻って来た。
「……ブルー……。これであなたと共に居られます…」
首飾りを裏返し、フィシスは宝石の裏を指先で愛しげに撫でる。
赤い宝石の上に銀色の髪が綺麗な曲線を描いて載せられ、水晶の板で覆われていた。首飾りを外せばブルーの形見が目に入るように。付けた時にはフィシスの頸に優しく触れて添うように…。
化粧台の前に座って首飾りをそっと頸へと回す。
カチリ、と微かな金属音を立てて留め金が嵌まり、赤い石が頸に輝いた。
この石はブルーが遠い昔にくれたもの。そして今は、この石と共にブルーが居る。
命ある限り、ブルーが遺した形見と共に。
その中に今も宿り続けるブルーの魂の欠片と共に……。
「……行きましょう、ブルー」
フィシスは見えない瞳でシャングリラの上に広がる宇宙(そら)を仰いだ。
この果てしない星の海の彼方に青く輝く水の星が在る。
ブルーが焦がれ、行きたいと願った母なる地球。
自分はそこへ行かねばならぬ。
女神と呼んでくれたブルーの夢を、切なる願いを叶えるために。
この手で何が出来るわけでもないのだけれど…。
ただシャングリラに運命を委ねるしかない身だけれども、ブルー、私は地球へゆきます。
あなたが此処に居てくれるから、私はあなたと共にゆきます…。
この石は忌まわしいナスカの色。…けれど、ブルー、あなたの優しい瞳の色を映した赤。
そこから見守っていて下さい。
青い、何処までも青いあの地球の青を、あなたに見せられるその日まで。
その時が来ても、ブルー…
どうか、私から離れてゆかないで。
私があなたの許へと飛び立てる日まで、私の側から離れないで…。
ブルー、あなたが私の地球。
私の魂が還り着く場所。
いつか二人で地球を見ましょう。
そうしたら………ブルー、あなたは私を迎えに来てくれますか?
こんな小さな石ではなくて、あの日、別れたままの姿で…。
「すぐに戻るよ」
「行ってらっしゃい」
「帰って来たら、また君の抱く地球を見せてくれ」
「……はい」
見えますか、ブルー………私の抱く地球が…?
本物の地球に辿り着くまでは、これで我慢していて下さいね…。
行きましょう、ブルー。
あなたが焦がれた青い水の星へ………。
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シャングリラの語源はチベット語で『シャンの山の峠』の意とされる。
シェルパ語はチベット語の方言の一つであり、高地民族シェルパ族が話す言語である。
なお、チョダブラムの名を持つ高峰は実在しない。
現在14座ある八千メートル峰の幻の15座目。
その峰が遠き未来に男神と女神が青き地球で住まう白き座、チョダブラムとなる。
神々の峰に、けして近付くことなかれ………。
チョダブラム ~女神の首飾り~ ・了
※チョダブラムってシェルパ語は嘘ついてないです、お勉強はしてないですけど。
ちょーっと山岳を齧っただけです、アマダブラムとチョオユーって山があります。
アマダブラムは「母の首飾り」、チョオユーは「トルコ石の女神」。
管理人的にはチョダブラムのモデルはアマダブラムです、双耳峰なんですよ。
筑波山みたいに頂が二つあるのが双耳峰。
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